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黎明媚態

露出系、羞恥系の18禁小説を書いています。関連の同人・版権作品のレビューも書きます。18歳以下の閲覧禁止。

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第5章 1


 その使用人は、脇目も振らずに必死に逃げていた。

 背後からは気味の悪い喚き声と共に、裸足で走る音が追いかけて来ている。
 ひときわ鋭い威嚇の声に、思わず使用人が振り返ると、少し距離はあるが確実に使用人を捉えている様子の小鬼たちが、醜い声をあげながら追いかけてきていた。
 小鬼は人型で人間の子供くらいの背丈しかない小さな魔物であるが、厄介なずる賢い知能と残忍さ、どこにでも湧く性質、そして何より人間の女性を犯して繁殖するというおぞましい特徴を有している。
 スライムや血吸い蝙蝠など、低級の魔物は多々いるが、小鬼は他の低級の魔族と違い、人間のテリトリーを積極的に侵してくる。
 その点で、人間にとって最も身近な脅威だった。

「ひぃ……っ!」

 ゆえに追いつかれればどうなるのか、その使用人もよく知っていた。
 全力で逃げる。どこにどう繋がっているかもわからない天然の洞窟内を、使用人は懸命に駆けていた。
 ルィテ王国の王城で働く彼女は、基本的な魔力の扱いは習熟しているものの、戦闘に慣れてはいない。魔力を纏った手で殴りつければ小鬼くらいは殺せる威力が出るが、彼女にそれができるかと言われれば否である。

(どうして、こんなことに……!)

 彼女は逃げ続けながらそう思っていた。
 王城で働く彼女は、有事の際にどう動けばいいのか、よく理解している。ルィテの王族が様々な状況を想定して、あらかじめ行動指針を定めているためだ。
 突如空から敵国の大軍勢が襲って来た場合でも、ちゃんと行動指針は定められている。
 仮にそういう状況であったとしたら、彼女も落ちついて行動できただろう。
 だが、王城そのものが魔界化し、それに飲み込まれるなどというあり得ない状況に対しては、対策が講じられていない。
 着の身着のままダンジョンに放り出されたようなものだ。

「だれか……! 誰かーッ!」

 彼女は逃げつつも声を張り上げ、助けを求める。だが、返事はない。
 普段の王城なら一声あげればすぐに衛兵がかけつけてくるというのに。
 叫べば呼吸が苦しくなるとわかっていたが、いまにも追いつかれそうな恐怖に声をあげずにはいられなかったのだ。
 健闘虚しく、疲労の溜まってきた使用人の動きは鈍くなり、蹴躓いて転んでしまう。
 その際、悪い躓き方をしたらしく、足を挫いてしまっていた。起き上がろうとすると足首に激痛が走り、彼女はまた転んでしまった。
 足掻く彼女に、小鬼たちが追いつく。
 そして彼女が逃げられないように、その周りを取り囲んだ。獲物を前にして、舌なめずりをしている。

「ひっ……こ、来ないで! 触らないで!」

 伸びて来た小鬼の手を振り払い使用人は抗うが、小鬼たちは嗤うばかりでその場から去ることはない。
 通常、小鬼たちは粗末な武器や衣服を身につけていることが多いが、この場にいる小鬼たちは何も手に持たず、何も身に付けていなかった。
 小鬼に限らず、低級の魔物は大気中に流れる魔力が、何らかの原因で一点に集中した時、形を成して生まれることがある。
 魔界ではそれがより顕著であり、彼らはそうして生まれたばかりの存在であった。
 だが、魔物にとって生まれたばかりというのは無垢であることを意味しない。

「ギッギッギッ」

 怯え震えることしかできないらしい獲物を前に、小鬼たちは潰れた蛙のような、醜い笑い声をあげる。
 本能に従い生きる彼らにとって、弱い人間は格好の獲物であった。
 小鬼たちが強く持つ欲求――所有欲、食欲、支配欲、そして性欲。
 それらをすべて満たす『服を着た』『人間』の『弱い』『雌』は、ご馳走としか言い様のないものだ。
 遮二無二暴れる彼女が疲れるのを待っていた小鬼たちが、彼女の動きが鈍ったのを見て、地面を蹴って一斉に跳びかかる。

 そして、再び地面を踏むことはなかった。

 彼らは謎の力で一瞬空中に縫い付けられたかと思うと、次の瞬間その体を歪ませ、巨大な透明の手に握り潰されたかのように潰れてしまったからだ。
 水袋が破裂したかのように赤い血が迸り、周囲にまき散らされる。
 それを頭から被った使用人は、目の前で起きた異常な事態に唖然とすることしかできなかった。
 その頭上から、細長い何かが彼女に襲いかかる。

「あっ――むぐっ、うぅ!?」

 悲鳴を上げる暇もなく、彼女の上半身はその何かに包まれてしまった。
 生暖かい感触が彼女の上半身を覆う。
 咄嗟に瞼と口は閉じたものの、鼻にどろりとした液体がかかり、危うく吸い込むところだったのを呼吸を止めて凌ぐ。
 もし彼女の状況を傍から見るものがいれば、天井を突き破って出現した細長い筒に、彼女の上半身が飲み込まれた様が見れただろう。
 いまはまだそれに包まれていない下半身が暴れて逃れようとしたが、その筒は彼女を上へと吸いあげていき、彼女の体はどんどん筒の中へと入っていく。

「ンーッ! ンんッーっ!」

 出せる限りの呻き声をあげ、必死に体を捩らせ、足をばたつかせる使用人の彼女。
 だがその抵抗も虚しく、彼女のシルエットは筒の中を移動し、足先まで筒の中に呑まれ、最終的には天井の中へと消えていった。
 そして、彼女を飲み込んでしまった筒自体も、突き破った天井の中へと再び戻っていく。
 彼女の呻き声はすぐ聞こえなくなり、その場所には静寂と、不可視の力で押しつぶされた小鬼たちの血だまりと肉片だけが残った。




「妙、ですね」

 床を塗らすその液体を検分していたバラノが、ふと呟いた。
 周囲を警戒していたテーナルクが、その呟きを聞き咎め、苛立ち混じりに問う。

「なにが、ですの? 調べられたのなら、ちゃんと詳細を教えてくださりませんか?」

 トゲのある言い方になってしまっているのは、元よりバラノとそりが合わないということもあるが、彼女が緊迫した状況下で神経を尖らせているためであった。
 テーナルクは王族らしく、魔法の扱いに長けた実力者ではあるが、王族であるが故に実際に戦場に出たことはほとんどない。
 戦地を視察することがあっても、その際には腕利きの護衛を伴っている。
 ゆえに、何が起きるかもわからない状況下で、戦える者が自分しかおらず、守らなければならない相手は本来敵国に属する者、となれば神経を尖らせるのも無理はないことだった。
 そんなテーナルクの心情を正確に理解しているのか、バラノはテーナルクに対して「申し訳ありません」と、不用意な呟きを聞かせてしまったことを詫びつつ、応えた。

「この液体は、スライムの体が溶けた……いえ、崩れて出来たもの、というべきでしょうか。いうなればスライムの残骸です。宿っている魔力の乏しさから、生まれて何も吸収することなく死んだと思われます。ただ、もし魔界化に伴って発生した魔物であるならば、死告龍の眷族ということになり、そう容易く死ぬとは思えません」

 バラノは戦闘力を持たない代わりに、分析力に長けていた。テーナルクも探査の魔法は使えるが、バラノはそういった魔法に加えて知識と知恵で分析を行う。
 テーナルクは深く息を吸って吐き、尖り気味の気を静め、冷静であろうと努める。
 そして同時に、バラノにひとつ上をいかれていることを自覚し、忌々しげに唸った。

(情けない……ルィテ王族ともあろうものが……いえ、その誇りもいまは不要ですわ)

 つい先ほど、魔界化が始まる前まで、テーナルクとバラノは互いに嫌悪を隠さないやりとりを繰り広げていた。
 無論、表立って敵意を露わにすることはふたりともしなかったが、思うところがあるのはお互い様であり、駆け引きの一種として嫌味の応酬くらいはしていたのだ。
 だが魔界化に呑まれ、ふたり孤立した時――戦える者と戦えない者の違いはあるとはいえ――テーナルクは先のやりとりの尾を引いてしまったのに対し、バラノはこの状況では協調するべきと即断し、先のやりとりの影響などまるで感じさせないように振る舞ったのだ。
 結果、テーナルクはバラノの態度もあって、頭を冷やさせられた。

(本当に、これを全部狙ってやっているのだとしたら質が悪すぎますわ……)

 冷静にならなければならなかったことは事実であり、ひとまずテーナルクはバラノの態度については考えるのはやめて、改めて問う。

「王城には兵士や魔法を使える者もいたはず……その者達が倒した、ということではありませんの?」

「そうかもしれません。ただ、それにしては周りに戦闘した後が何もないのです」

 そういってバラノは周囲に視線を走らせる。
 テーナルクはスライムの痕跡にばかり目がいって、周りを見渡せていなかったことに気づかされ、顔をしかめた。

「……確かに、そうですわね」

「見るべきものは見ましたし、ここから移動しましょう。なんであれスライムを倒すような存在がこの付近にはいるわけですし」

 テーナルクとバラノは移動を開始する。
 彼女たちがいる場所は城の廊下のような広い空間だった。しかしルィテの王城とは違う場所であることは明らかで、廊下は複雑怪奇に入り組み、先が霞むほどの遠くまで続いている廊下さえあった。天井は高く、魔法の灯りが天井からつり下がって照らしているため、視界はそれほど悪くはない。
 ふたりはなるべく目立たないように廊下の端を、周囲に警戒しながら進む。
 バラノが先に立って進み、テーナルクは背後に立って広く俯瞰して周囲を見つつ、背後にも気を配っていた。

(本当に、腹立たしいほど有能ですわね……)

 テーナルクは前を進むバラノの背を複雑な気持ちで見つめる。
 戦闘力をほとんど持たないバラノが先頭を歩いている理由は、端的にいえば囮である。
 最も危険な初撃をバラノが受けることで、背後に控えたテーナルクが対処しやすくするという目論見だ。
 確かに初撃でテーナルクが戦闘不能になってしまっては、バラノも結局はやられてしまうだろう。戦闘力がないといっても基本的な護身術は抑えているので、バラノが初撃で死ぬようなことはよほどの攻撃でなければない。
 とはいえ、それでも自ら攻撃を受けるかもしれない立ち位置を躊躇わず選択できる辺り、非戦闘員らしかぬ覚悟を決めていると言えた。
 移動しながら、テーナルクとバラノは会話を続ける。

「スライムは弱い魔物ではありますが、物理的な攻撃では核を的確に打ち抜かねばならず、とても激しい戦いになるはずですし、魔法でならばまだ対処は容易ですが、焼き払うという形になる以上、その痕跡は多く残るはずです」

「それほど強力な眷族ではなかった、ということかもしれませんわよ?」

「私もその可能性が高いと思うのですが……仮説として聞いてください。即死属性なら、相手がスライムであろうと痕跡ひとつ残さず、難なく殺せます」

「……? それは当然では……ん、いえ、そうではないですわね」

 スライムを痕跡ひとつ残さず倒すには、熟練した技か、即死属性持ちの攻撃が必要だ。
 前者でないとすれば、即死属性を持つ者がこのスライムを殺したことになる。そうなるとその候補の筆頭に上がるのは死告龍である。
 死告龍レベルの即死攻撃が出来るものを、テーナルクもバラノも他に知らない。
 死告龍であれば、気にくわないという理由でせっかく生まれた眷族を殺す可能性もないわけではない。
 ただ、死告龍の眷族であれば、眷族も即死属性を持っているはずなのだ。

「属性持ちの魔物は、持っている属性に対する耐性も合わせて持っているのが普通……でなければ、死告龍は自分の吐く即死ブレスで死んでしまいますから」

「もしあのスライムが眷族であったとするなら、即死属性で容易く死ぬはずがない、というわけですわね」

「ええ。基本的に眷族は主に忠実とはいえ、死ねと言われて死ぬほどではありません。何の抵抗もしなかったのはおかしい……つまり、あのスライムは抵抗する間もなく、死告龍、もしくはその眷族に即死属性で倒された、死告龍の眷族ではないスライムの可能性があります」

「……まさか。魔界化がそこまで進行しているというのですの?」

「あくまで可能性の話ですが……十分あり得るかと。本来なら、城が魔界化すること自体あり得ないことなのですし」

「……それもそう、ですわね」

 反抗心ゆえではなかったが、否定する材料を探したテーナルクは、バラノの推測を否定することが出来なかった。
 魔界化にはいくつか段階がある。
 ある一定の大きさを有する魔界には、魔力溜まりがよく出来るようになり、魔界の主とは直接関係のない魔物が多々発生するようになるのだ。
 それがさらに深まっていくと、魔界から出られない眷族以外の魔物が魔界から溢れ出すようになる。その中でも強力な魔物がまた別の魔界を生み出して広がり、やがて魔界は迷宮――いわゆるダンジョン――へと呼び名を変えていく。
 元々混沌とした魔界がさらに混沌とし、思い掛けない素材や財宝も生まれるようになり、そういった迷宮は人々にとって最大の脅威にして最高の狩り場になる。

「全く……死告龍は本当に何もかもが規格外すぎますわ……迷宮は『古代魔王の大迷宮』だけで十分ですのに……」

「あそこは魔界の中核を成す魔王が封印されていて、比較的安全ですからね。ただ、最近は各国の調査団が殺到しすぎて、少々面倒なことになっているようです。迷宮を管理しているシュルラーヌ共和国から、しばらく転移を控えるように通達がありましたし」

「一昔前に比べると、転移魔法に改良が加えられて、発動に必要な魔力量も抑えられて来ておりますから……というか、その面倒を起こしている筆頭の国が、人ごとみたいに言うんじゃありませんわ」

「我が国にとっても重要な迷宮ですので」

 テーナルクのトゲのついた言葉を、しれっと受け流すバラノ。
 その役者ぶりにテーナルクは深く溜息を吐いた。
 ザズグドズ帝国は侵略政策を主とする軍事国家だ。ゆえに『古代魔王の大迷宮』にも頻繁に調査団――という名の冒険者の一団――を派遣し、貴重な資源や財宝を回収している。
 大抵の国で冒険者は上位になればなるほど自由人の気質が強くなり、縦の繋がりは弱くなっていく。国のいうことを利かなくなる者が多くなるのだ。
 だが、ザズグドズでは、冒険者と国の結びつきが強く、各国の迷宮調査団の中でも破格の実績をあげている。

「あれだけ優秀な冒険者たちを国がまとめ上げている手腕には関心してしまいますわ。一体どんなカラクリがあるんですの?」

「機密でもなんでもないですよ。単に駆け出しの頃からきちんと支援しているだけです」

 帝国では冒険者というのは「一攫千金を目指す向こう見ずな若者がなるもの」という認識ではなく、「未知に挑み、困難に打ち勝つ専門家」という認識である。
 食うに困った寒村の若者や周囲に馴染めない乱暴者が仕方なくなるもの、ではないのだ。商人や職人と同様にひとつの職業であり、向いているものが目指すものなのである。
 ゆえに教育や指導などの支援が充実しており、他の国に比べると駆けだし冒険者の死亡率は極めて低い。

「なるほど、そうやって育った冒険者は、国に恩があるから指示も聞かせやすく、作戦行動も取りやすいというわけですのね……」

「特にいまの王は徹底した実力主義者ですから。冒険者を軽んじたとある貴族のご令嬢を毒沼に蹴り落としたこともありましたね」

「聞き及んでおりますわ……その噂、帝国の野蛮さを端的に表す話となっていますわよ? 真実は違うのですの?」

「もちろんです。王はドレスに身を包んだご令嬢に、その姿で毒沼を歩けるかと問うたのです。無論、ドレスはめちゃくちゃ、ご令嬢も毒に侵されてまともに歩くことも出来なくなりました。王はそんなご令嬢を冒険者に命じて助けさせ、己が分を弁えよとおっしゃいました」

 バラノは自分の主君を誇るように、話を続ける。

「すっかり大人しくなったご令嬢の元に、王は彼女が着ていた以上の素晴らしいドレスを贈り、伝えたのです。『お前の分は華やかに着飾り、美しい所作と振る舞いで我が国を美しく魅せることにある。それは冒険者には出来ないお前の仕事だ』と」

「なるほど……飴と鞭で諭したというわけですわね。周辺国家には鞭の部分しか伝わっていないようですけども」

「逆の話もありますよ? 貴族を軽んじた冒険者に対し、巧みな話術で極めて不公平な契約を結ばせたのです。その解消を貴族に命じて、貴族の交渉術というものを見せつけさせたことも」

「なんとも厄介な……そこまで優秀なのに、なぜ侵略政策など取るのでしょう」

「王曰く、必要なことだからだそうですが……私も詳しくは教えられておりません。王自身に『王を盲目的に信じるな』と命じられておりますので、私も独自に色々と調べて考えてはいるのですが……ん?」

 そこで不意にバラノの進む足が止まった。
 テーナルクが警戒を強める。バラノはそんなテーナルクに人差し指を立てて静かにするように合図してから、廊下の角から奥を静かに覗き込み――その身体が、天井に向かって吹き飛んだ。
 一瞬の出来事だったが、テーナルクは何が起きたのか正確に把握出来ていた。
 角から先を覗き込んだバラノの背中に、白い糸のようなものが上から降って来て、張り付くと同時に引き揚げたのだ。

「バラノ様! ――くっ!」

 テーナルクは咄嗟に頭上に魔法障壁を張りながら後退する。
 展開した魔法障壁に粘着性のある白い糸がぶつかり、障壁をたわませた。

(上からとは……不覚ですわ!)

 カサカサと、天井を這う音がする。
 バラノはその音に気づいたが、角を曲がる直前だったため、曲がった先から聞こえていると勘違いしてしまったのだ。
 天井を見上げたテーナルクは、天井に巨大な蜘蛛が張り付いているのを見た。その大きさは、口の部分だけで人間の頭部を囓れるほどに大きく、膨らんだ胴体や、細長いが大きく広がる八本の足まで含めると、死告龍並みに大きい。
 蜘蛛はお尻の先から白い糸を射出し、バラノをぐるぐる巻きにしていた。バラノはミイラのように全身が白い糸で覆われており、芋虫のように身体をくねらせることしかできていなかった。

(まずい……あのままでは呼吸ができませんわ……!)

 一刻も早く助けなければ命が危ない。
 テーナルクが攻撃的な魔法を唱えようとしたとき、蜘蛛が再びテーナルクに狙いを定める。
 障壁を展開して備えるテーナルク。その背筋に悪寒が走る。
 彼女は咄嗟に魔法を中断し、横っ飛びでその場から逃れた。
 その次の瞬間、黒い霧のようなものを纏った糸を蜘蛛が射出し、テーナルクが展開していた障壁を突き破って、一瞬前まで彼女がいた場所に白い糸が着弾した。

(障壁を一瞬で――? これは、即死属性……死告龍の眷族……っ!)

 悪寒の正体を悟りながら、テーナルクは走る。
 逃げるためではなく、同じ場所に留まらないための足運びだ。
 テーナルクの判断は正しく、蜘蛛は次々糸を放射し、テーナルクをも絡め取ろうとする。
 避け続ける彼女は、蜘蛛を倒すのは難しいと判断した。

(蜘蛛には炎系の魔法が有効……ですが、いまそれを放つとバラノ様まで巻き込んでしまいますわ……)

 蜘蛛の糸は良く燃える。それゆえに、もしいまテーナルクが炎の魔法を使って攻撃をすれば、燃え広がる火がバラノまで燃やしてしまうだろう。
 魔法の火は放った者の意思である程度制御することが出来るが、選択した者だけ全く焦がさないほどに制御出来るのは、魔法を極めた者だけだ。
 ましてや、炎の制御だけに集中できる状況でもない以上、延焼してバラノを焼いてしまうということになりかねない。

(ここは、撤退すべ――きっ!?)

 天井に張り付いていた蜘蛛が、突如落下して来た。空中でくるりと身体の向きを変えた蜘蛛は、床に着くや否や、もう加速してテーナルクに迫る。
 蜘蛛の口の前、鎌のような形状をした鋏角がテーナルクに食らいつかんと開いていた。
 硬直しかけたテーナルクだが、ギリギリ回避行動が間に合った。床を蹴り、突っ込んで来た蜘蛛の頭上を越える形で、突進を回避する。
 その際、着ていたドレスの裾が蜘蛛の身体に引っかかり、太ももまでむき出しになるスリットが新たに生まれてしまった。
 だが、そんなことに構っている余裕はない。

(いまが好機ですわ!)

 蜘蛛の速度は確かに脅威だったが、テーナルクがギリギリでかわしたことにより、蜘蛛は一瞬テーナルクの姿を見失った。
 テーナルクは無防備な蜘蛛の背に攻撃魔法を撃ち込む――ことはせずに、強化した身体能力を活かし、天井に向けて跳躍。
 糸によってぐるぐる巻きにされていたバラノの近くに移動すると、風の刃を生み出す魔法を使い、バラノを巣から切り離した。
 肩に担ぐようにバラノを回収すると、天井を蹴って床へと移動。着地すると同時に勢いよく駆けだし、蜘蛛から離れていく。
 決して無理はせず、救出を優先したテーナルクの判断は正しかった。

 だが、警戒が一つ足りなかった。

 確実に逃げられると考えたテーナルクの身体が突如減速し、空中につなぎ止められる。
 テーナルクは自分の身体に、目を凝らさないと見えないレベルの、細い糸が絡みついているのを感じた。

(罠――!?)

 テーナルクは失敗を悟る。
 蜘蛛の死角を行こうと咄嗟に駆けだした方向は、まだ彼女たちが歩いていない場所、つまりは蜘蛛がいた方向の廊下だった。
 すでにその場所には蜘蛛によって罠が張られており、迂闊に走りだしたテーナルクはその罠にまんまと引っかかってしまったのである。
 魔法を使って抜け出そうとしたが、それは致命的なタイムラグだった。

 テーナルクの腹部に、激痛が走った。

 即座に距離を詰めた蜘蛛が、その毒針をテーナルクの腹部に突き刺していた。
 刺されたことによる激痛と、流し込まれた毒液による痺れが全身を襲い、テーナルクの意識は暗転してしまった。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第5章 2


 清澄聖羅は、リューらしき小さなドラゴンを抱えて困惑していた。
 不可思議な森の中を模した魔界から脱出するべく、隠されていた扉を発見したまではよかったものの、その扉が開くと同時に小さなリューが飛び出して来たのだから、彼女が困惑するのも無理はない。
 普段のリューは人外のドラゴンらしい恐ろしげな相貌をしているが、その小さなリューは大きさによる威圧感の差もあるのか、どことなくあどけない印象を受ける風貌をしていた。

「あの、リューさん? これはいったいどういう……」

「きゅるるる~」

 聖羅の問いかけに答えず、リューは長い首を伸ばして聖羅の首筋にすり寄る。飼い主に懐いている大型犬がするような動きだった。
 本来、リューの体表面は鱗によって覆われており、もしも普通の人間の柔肌に対し、いまのようにすり寄れば、大変グロテスクな光景になっていただろう。目の粗いヤスリを擦りつけられるようなものだ。
 幸い聖羅にはバスタオルの加護がある。彼女の体はあらゆるものから守られていた。
 ゆえに、本来なら怪我をするような行為をリューにされても、くすぐったいだけで済んでいた。

「あ、あの、くすぐった……ひゃぁ! な、舐めないでください! ちょっ、そこはダメです!」
 
 首筋にすり寄るだけでは満足出来なかったのか、リューは聖羅の頬や首筋を舐め始めた。
 本来のドラゴンの舌は、鱗ほどではないにせよ、ざらざらとした感触のものだが、加護による影響のために、聖羅には普通の人間の舌に舐められているような感覚になっていた。
 いかにも動物的な動きをするリューに『そういう』つもりはないのだろう。
 とはいえ、聖羅がくすぐったいことに変わりはなかった上、危険なところを舐めそうになったため、聖羅は泡を食ってリューを抱き上げていた腕を伸ばし、その場所を舐められないようにしていた。
 一方、そんな聖羅とリューの様子を傍で見ていたルレンティアとアーミアは、困惑気味の顔を見合わせている。

「うーん、あーみん、これは、どうしたことかにゃあ?」

「……わからない。けど、そのドラゴンが死告龍であることは間違いない……と思う」

「ボクもこのドラゴンが死告龍だとは思っているにゃ。でも、それにしては気配も魔力も小さすぎないかにゃ? まるで……幼くなったみたいだにゃ」

 強大な魔力を持つ死告龍。
 その前に立つだけで気分を悪くしてしまっていたルレンティアだったが、いまは特にそういったことは感じないのか、余裕を持って――聖羅の体越しではあったが――小さな死告龍を眺めていた。
 そんなルレンティアの言葉に、アーミアは同意して深く頷く。

「魔界を生んだ魔物が、それによって弱体化……いや、幼体化するなんて話は聞いたことがない」

 魔界は魔物の影響を受けて自然にできるもので、魔物が作ろうとして作るものではない。
 その仕組みを考えれば、魔物が魔界のために力を使っているわけではない以上、魔界が生まれたからといって魔物が弱体化するわけがない。
 しかし現実として、死告龍らしきドラゴンは幼体と化している。

「……聞いたことはないけど、これだけ規格外の魔界を生み出したことから考えると、あり得なくはない。もしかすると、魔物が肉体を基礎に用いることで、ここまでの規模の魔界を短期間で、人工物の中にでも生み出すことができるようになるのかも」

「あり得そうな話にゃけど……それを魔物がやる意味があるのかにゃあ? 人間にしてみれば脅威だけど、そこまでして魔界を生み出す理由は、魔物にはないと思うんにゃけど」

 ルレンティアはそう呟きつつ、アーミアに意味ありげな視線を送った。

「うーん。結論を出すのは早すぎるかにゃ?」

 その言外に含まれた意味に、アーミアは頷く。

「早すぎると思う。まずはこの魔界のことをもっと調べるべき」

 魔界化への基本的な対処法は、その魔界を生み出した魔物を倒すというものだ。
 幼体化している死告龍であれば、あるいは倒すことも可能かもしれない。人類にとっては不倶戴天の敵である死告龍を倒す好機ではあるのだ。
 それを考慮に入れたふたりのやり取りであった。
 しかし同時にふたりは、様々な面で規格外な魔界であるため、その主である死告龍を倒してしまうことでより事態が深刻化することも考えていた。
 死告龍を倒す千載一遇の好機なのは間違いないが、その結果起こるかもしれない悲劇を考えると、ふたりの姫は慎重にならざるを得なかったのだ。

「あ、あのっ! おふたりで話してないで、助けてくれませんかっ!」

 ふたりがそんな話をしていることに気づいていない、正確にはリューにじゃれつかれていて余裕のない聖羅は、二人に向けて助けを求める。
 そんな聖羅の救難信号に対し、ルレンティアとアーミアは苦笑いで応じた。

「ごめんにゃ~。ボクたちが引き離そうとしたら、たぶん噛まれるから無理にゃ~」

「死告龍様はセイラさんにしか懐いてないから……がんばって」

 もし普通の犬猫であったなら、ルレンティアとアーミアも多少の怪我は覚悟の上で聖羅を助けられたかもしれないが、相手はドラゴン、それも死告龍である。
 幼体化しているとはいえ、死告龍に噛まれれば痛いでは済まない。手の先がなくなるような危険は冒せなかった。
 その理由は聖羅にもわかるため、それ以上強く求めることは出来なかった。

「そんなぁ……わひゃっ! リューさん、だめですってば!」

 また頬を舐めようとするリューを、聖羅はキッと睨み付けることで牽制する。
 滅多に聖羅が浮かべないその表情に驚いたのか、リューは振り回していた尾を力なく垂らし、首を竦めて、翼が力無く項垂れた。
 しょぼーん、という擬音が耳に聞こえてきそうなほど明瞭な感情表現に、聖羅は罪悪感を覚えて呻く。

(私は悪くない……はずなんですけど、なんでしょうこれ……なんだか、私の方が悪いことをしているような気に……)

 叱った子供が想定以上に落ち込んでしまって、子供に非があったとしても気まずく感じるような、そんな気持ちに聖羅はなっていた。
 そんな聖羅の背後に、ルレンティアとアーミアが立ち、そっと肩を叩く。

「せいらんせいらん、子供を叱ったときはその後が大事にゃ」

「もう怒ってないよ、と行動で示してあげるべき」

 さりげなく聖羅を盾にしつつではあったが、その助言に聖羅は感謝した。
 力無く尻尾を揺らすリューを、聖羅は抱きしめる。

「もう、怒ってないですから、ね? ちょっと静かに、大人しくしていてください」

「きゅるる……」

 相変わらずすり寄っては来るものの、必要以上に舐めることはなくなった。
 ひとまずリューが落ちついたことを感じ、聖羅は改めてルレンティアとアーミアに向き直った。

「それで、あの、おふたりはどうお考えですか?」

「そのドラゴンの幼体が死告龍様であることは、ほぼ間違いない、と思う」

「弱くなっているとはいえ、魔力の気配は死告龍様のままだしにゃ」

「……私はこの格好の時、リューさんやヨウさんの声は聞こえなくなってしまうのですが、いまのリューさんの声はおふたりにも聞こえませんか?」

「いや、完全に声が聞こえないわけじゃないにゃ。ただ、話すことはできなさそうなんだにゃ」

「どういうことですか?」

「死告龍様はずっと『せいら、せいら』と言っているの」

「まさに、言葉を覚えたての子供って感じだにゃ。性格や記憶はそのままに、知能だけ幼体化した……ってことなのですかにゃ?」

 ルレンティアが小首を傾げて問いかけるものの、リューは相変わらず聖羅に夢中で反応しなかった。

「うーん。確かに、言葉がわかっている様子はありませんね」

「しかし、困ったにゃあ。死告龍様と会えればなんとかなると思ったんだけどにゃ」

「これでは、どうしようもならない。とにかく、この魔界から出ないと」

 三人はそう結論を出し、改めて魔界からの脱出を目指して行動し始める。
 まずは、リューの飛びだしてきた扉の先を確かめる。
 リューが飛びだしてきたその扉の先は、広々とした石造りの廊下だった。まるで城の廊下のようにも見えたが、明らかに広さが違う。
 道の先が霞むほど遠くまで続いていた。

「こりゃまた広い空間だにゃあ……」

 もはや呆れるしかないといった様子で、ルレンティアは深々と溜息を吐く。
 それは聖羅やアーミアも同感で、疲れた様子の顔を見合わせた。

「これも結界術の一種のようだけど……こんなに広げられるなんて」

「境界線にさしかかったら、またさっきみたいにぶつかってしまうのでしょうか」

 先ほど急に頭をぶつけたことを思い出したのか、聖羅は手を恐る恐る前に出す。
 怯んでいる聖羅の様子に、アーミアは「大丈夫」と声をかけた。

「さっきは油断していたから見逃したけど、今度はそんな見逃しはしない。境界線にさしかかったらちゃんと教えるから、セイラさんは心配しなくていい」

「その辺りはあーみんにお願いするにゃ。ボクも気をつけるけど、ボクはアーミンほど結界術に長けてないからにゃあ」

「ルーさんの得意な魔法はどういったものになるのでしょうか?」

 何気なく、聖羅はそうルレンティアに尋ねた。
 アーミアが結界術というものに長けているというのは、会話の流れで把握したが、ルレンティアの得意な魔法については聞いていなかった。
 その聖羅の問いに対し、ルレンティアは少し考えるような間を置く。

「そうだにゃあ……一通り覚えてはいるし、身体強化系の魔法は意識して習熟したけど……一番得意となると、感知系ってことになるのかにゃ」

「ルレンティアのそれは、魔法なのか種族としての性質なのか、判断に困るところがある」

 獣人であるルレンティアはそもそもが勘働きの優れた存在だ。
 ゆえに、例えば感知系の魔法を使って得た情報から閃きを得て、その閃きに沿って効率的に感知魔法を使用する、と言ったことも出来る。
 感知系の魔法が得意、といえばその通りなのだが、そうだと断言するには少々種族としての特性が大きいこともあり、一概にはいえないというのが実際のところだった。

「テーナルクさんやバラノさんはどうなのでしょう?」

 魔界に飲まれているであろう、代表的なふたりについて、聖羅は口にする。
 その疑問に、ルレンティアとアーミアは揃って唸った。

「バラノについては……ボクもよくしらないにゃあ」

「策略家であり謀略家であるとは聞いている。セイラさんみたいに全く魔法が使えないというわけじゃないけど、あまり得意ではないみたい」

「てーなるんに関しては……ボクたちから言ってもいいのかにゃ?」

「構わないと思う。本当にダメなことはわたしたちには言わない」

 聖羅からすると気の置かないやり取りで仲の良い印象の三人だが、国を背負う立場の者同士、互いに言えないことや隠していることも多いのだ。

「じゃあ話しちゃうにゃ! てーなるんもボクと同じで、一国の姫という立場だから、一通りの魔法は覚えているにゃ。じゃないと魔法による暗殺とか怖いからにゃ」

「わたしは同じ姫でもちょっと違うけど、王族であるアーミアが優先しているのは、なによりも生き残ること。不意の襲撃にはもちろん、毒物などへの対策も万全なはず」

「対策、ですか?」

「わたしやルレンティアも活用してるけど、負傷したら自動的に回復魔法を唱えてくれるマジックアイテムを身につけたり、毒物をあらかじめ摂取して体を慣らしておいたりとか」

「致死性の猛毒であっても、ある程度なら耐えられるんじゃないかにゃ? ボクもそういう訓練は積んでるしにゃあ」

 平然と交わされる会話の内容に、普通の一般人でしかない聖羅は唖然としていた。
 そんな聖羅の反応を楽しむように、ルレンティアは締め括る。

「だから――麻痺毒程度なら、全然利かないにゃ」




 天井近くに展開された、蜘蛛の巣にかかった哀れな犠牲者たち。
 巨大な蜘蛛の糸によって全身をぐるぐる巻きにされ、身動き一つ取れない状態で巣に引っかけられている者達。
 微かに呻き声はするものの、体を動かす余力はないのか、蜘蛛の巣が揺れすらしない。
 その数は十とも二十とも見え、巣の主たる大蜘蛛が、新たな犠牲者をふたつ追加する。
 蜘蛛は巣を埋め尽くす犠牲者たちの塊を満足そうに確認したあと、さらなる獲物を探して再び巣の外へと出て行く。
 後には身動ぎひとつできない犠牲者たちが、かすかに呻く声だけが残り――

 そのうちのひとつが、内側から引き裂かれる。

 白く細い腕が糸によって作られた繭を突き破り、その掌に炎を灯した。
 炎はその腕の突き出した繭だけに燃え広がり、その者の体を覆っていた糸をあっという間に焼き尽くす。
 繭の中から姿を現したのは、背中に穴が開き、引き裂かれたのか、至るところがボロボロになったドレスを身に纏った女性。

 ルィテ王国第一王女、テーナルク・ルィテその人であった。

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第5章 3


 蜘蛛の糸に包まれていた状態から、自力で脱出したテーナルク・ルィテ。
 広いホールのような空間の、天井付近に張り巡らされた蜘蛛の巣に掴まり、ぶら下がりながら素早く周辺を見渡す。
 自身を糸で捕らえた大蜘蛛が近くにいないことを確認すると、ほっと一息を吐いた。

(注ぎ込まれたのが、致死性の猛毒でなくて命拾いしましたわね……さすがにあの量は耐えきれませんわ)

 テーナルクは蜘蛛に牙を突き立てられた箇所を掌で摩る。
 大蜘蛛の牙は元々の体躯の差から、人間にとってナイフで刺されるのと変わりない損傷を体に与える。
 特に今回は逃がすまじとばかりの突撃と共に突きたてられたため、毒がなくとも傷がそのまま致命傷になりかねないほど深くなっていた。
 しかしいま、テーナルクの体には傷らしい傷はない。多少皮膚に違和感はあったが、血も滲んでおらず、ほとんど完治しているといっていい状態だ。

(自動回復の首飾りは……ダメですか。再度同じ攻撃を受ければ、今度こそ死にますわね)

 テーナルクは暗殺対策として、傷つけられると同時に発動する回復魔法を仕込んだネックレスを身に付けていた。それが効果を発揮し、受けた傷を癒やしたのである。
 高い治癒力を発揮したネックレスは、その代償に壊れかけており、同じことはもう出来ない状態だった。
 ネックレスには、毒を無効化する力はなかった。注ぎ込まれた毒液は、純粋にテーナルクの抵抗力で耐えたのだ。王族の嗜みというものである。
 本来ならば身動き一つ取れなくなっていただろうが、一時的に意識を失う程度で済んでいた。
 しかし当然ながら万全な状態とは言いがたく、テーナルクはこの後はより慎重に行動しなければならないことを肝に銘じる。
 改めて周囲の気配を探り、蜘蛛が近くに戻って来ていないことを確認する。

(ひとまず、蜘蛛の気配は近くにない……ですわね。とりあえず下に降りて、落ちついて態勢を整えましょうか――)

 身体強化の魔法を扱えるテーナルクにとって、巣の高さはそう恐れるほどのものではなかった。
 念のため感知魔法を用いて、細い糸の罠が張られていないことも確認。
 怪しいものは何も感知できなかったため、テーナルクは蜘蛛の巣に掴まっていた手を離して、下に降りようとして。

『お待ちください、テーナルク様』

 すぐ近くから静止の声がかけられ、その動作を中止した。
 テーナルクが周囲を見渡すと、彼女と同じように蜘蛛に捕獲されたと思われる人間大の繭のひとつから声が聞こえて来ていた。

「バラノ様! ご無事でしたの!」

 白い繭の一部が裂け、その隙間からバラノの目だけが覗いていた。

『……ええ、なんとか。念話にて失礼いたします』

 バラノの口元はいまだ蜘蛛の糸によって覆われており、声を出すことは出来ないようだ。
 テーナルクは糸を伝って、バラノの傍に寄る。

『どうやら、あの蜘蛛は我々を殺す気はなかったようですね。周りの方々も生きていらっしゃるようですし。私が早々に脱出を諦めて抵抗をしなかったためか、テーナルク様のように毒も注がれずに済んだようです』

 言われてテーナルクは周囲の繭を見渡す。
 確かに、どの繭も微かに動いていて、全く動かない繭はないようだ。

「呼吸は出来ているんですの?」

『ええ。激しく動くと苦しいですが、この糸、かなり通気性はよいようで。落ちついて呼吸すれば、普通よりすこし息苦しい程度で済みます。ただ、突然のことに動揺した状態では難しいのでしょう。ほとんどの人はしばらくもがいた後、気を失ってしまっているようです』

 さらりとバラノは言ってのけたが、その胆力にテーナルクは舌を巻いた。
 力を持たないということがかえって覚悟を決めさせているのかもしれないが、冷静であろうと努めて実際にそうできる者はそうはいない。

「その目の部分だけ糸が裂けているのは?」

『私の無詠唱魔法ではこれが精一杯でした。起きていることが蜘蛛に知られても困りますし……ちなみに、私たちがここに運びこまれてから一時間ほど経過しております。その間、何度か蜘蛛は私たちと同じようにした犠牲者を運びこんで来ています。先ほども二人ほど追加されたところです』

「一体、何のつもりなのでしょう……この巣に生け捕りにすることに意味があるのでしょうか? ともあれ、貴女を捕らえている糸を焼きますので、動かないでくださいまし」

『お願いします。ただ、下に降りたくはないので、体を支えておいてくださいますか?』

「なぜ下に降りたくないんですの? 何かあるようには見えませんわ。糸もないようですし」

 先ほど、見えないほど細い糸の罠に引っかかったテーナルクは、それを学習して、そういった細い糸がないかどうかは真っ先に警戒していた。

『予想なのですが、触れたら切れる程度の、極細の糸が張り巡らされているのではないかと。蜘蛛の種族の中には、そういった糸を感知装置にして、巣の異変に気づく者がいると聞いたことがあります。それが厄介な点は、目視することが極めて困難である上、魔力を介さないために感知魔法で認識できないという点です』

 バラノは知識と予想を絡めてテーナルクに説明する。
 あらゆる想定を行うのは、軍略家たるバラノの得意とするところであった。

『わざわざ我々を生け捕りにした以上、そこにはなんらかの意味があるはず。こんな開けた場所に、何の用意もなく、ただ放置するとは思えません』

「……ありえなくはない話ですわね」

 テーナルクは言いつつ、視力を限界まで強化し、床に極細の糸が張られていないかを確かめる。
 そう意識して糸を探して見ると、ほんのわずかであったが視界の一部に違和感を覚えた。
 先ほどテーナルクたちを捕らえたものよりも遙かに細い糸が張り巡らされているようだ。
 それは獲物を捕らえる役目は果たさないだろうが、バラノが言ったような延長された感覚器としての役割は果たすであろう。
 もしテーナルクが先ほど下に降りていたら、それを察知した蜘蛛が戻ってきていたかもしれない。

(まったく……味方であるうちは頼もしいのですが)

 テーナルクは争う領域が違うとはいえ、バラノの想定の的確さに舌を巻かざるを得ない。
 その頭脳がかつては敵としてルィテ王国に牙を剥いていたこと、そして死告龍の騒動によって、彼女がルィテ攻略のための戦略を立てられなくなったことを考えると、テーナルクは命拾いをしたような心持ちだった。

(とはいえ、軍略家は彼女だけではありませんし、油断は禁物ですわね)

 そこまで考えたテーナルクは、一端それらのことを頭の隅に追いやった。
 ルィテ王国とザズグドズ帝国の戦いも重要だが、いま優先すべきはこの非常に危険な状況からの脱出である。
 テーナルクはバラノの近くの糸に片手でぶら下がり、バラノの体に空いた手を添える。身体能力強化の魔法がなければ、とても出来ない芸当だ。

「では、いきますわよ。動かないでくださいませ」

 バラノの体に添えた手に魔法の火を宿し、バラノを捕らえている蜘蛛の糸だけを正確に焼いていく。
 戦闘中には不可能であったが、じっくり行うのであれば問題なく糸だけを焼ける。
 程なくして、バラノは糸から解放された。その体を片手で担ぐようにして、テーナルクが支える。

「ありがとうございます。テーナルク様」

 バラノは糸から解放され、喋れるようになったためか、肉声に切り替えて話す。
 両手で胸を庇っているのは、彼女が着ていた『聖女風ドレス』の胸に巻き付けていた布が引き千切れていたためである。
 テーナルクは的確に糸だけを魔法の炎で焼いたのだが、その布は糸を巻き付けられる段階で破かれていたのだ。
 幸い、彼女はそのドレスの発端になった聖羅と違い、ちゃんと下着は身につけていたため、裸の胸を晒すことは避けられていたが、恥ずかしいことに変わりは無い。
 そういう意味ではテーナルクも似たような状況にあるのだが、本人の維持もあり、気にしないように努めていた。

「この体勢、あまり長くは保ちませんわ。いずれにせよ、降りていかなければなりませんが……方針を定めましょう。奇襲か。逃走か」

「逃走でしょうね」

 バラノのその判断に、テーナルクも異論は無かった。
 この場に隠れ、戻ってきた蜘蛛を奇襲することも考えられなくはないが、テーナルクもバラノも戦闘に特別優れているわけではない。
 一撃で倒し切れればそれもいいが、そうできない場合の方が可能性としては高い。。
 即死属性を持つ蜘蛛に戦いを挑むのは無謀である。
 まずはこの場を離れ、戦闘に長けた者と合流することを目指すべきだった。

「蜘蛛がどちらに行ったかはご覧になっておられませんの?」

 蜘蛛との遭遇は極力避けなければならない。
 相手も移動する以上、確実なことはわからなくともなるべく可能性を下げるために、テーナルクはバラノにそう尋ねた。

「残念ながら、蜘蛛が去っていった通路は私から見えなかったのです。ただ、逆にいえば私から見えていた通路から出て行っていないので、選ぶならそこでしょうか」

 言いつつ、バラノはこの広間に通じる道のうち、一本の通路を指さした。
 そこは蜘蛛が出入りするには少々狭く、選択肢としては悪くなさそうに見える。
 だが、テーナルクは悩んだ。

「……おそらく、罠が張り巡らされていると見ますわ」

 いかにも蜘蛛から逃げやすそうな通路。
 そして、蜘蛛が使いづらそうな通路。
 開けた廊下での遭遇戦でさえ、用意周到に逃げ道を塞ぐように罠を準備する蜘蛛が、その場所に罠を何も用意していないわけがなかった。
 そのことに、バラノも同意する。

「私もそう思います。ですので……こういう手はいかがでしょうか?」

 バラノが示した策戦に、テーナルクは苦い顔をしながらも従わざるを得なかった。
 軍略家たるバラノの示す手は、実に的確だったためである。




 二人の騎士が、たった一匹の大蜘蛛に翻弄されていた。
 騎士は王城に勤めていることもあり、選りすぐりの精鋭だった。その研ぎすまされた剣技と優れた魔法の扱いによって、大抵の魔物は個人で討伐出来る実力者揃いだ。
 だが、それでも蜘蛛は騎士を翻弄し得た。

「くっ……!」

 騎士が構えた剣が、突如半ばから切断されて使い物にならなくなる。
 咄嗟にその騎士は転がって追撃を裂けたが、戦闘力の著しい低下は避けられない。

「ダメだ魔力を宿した剣でも受けるな! 『即死』させられるぞ!」

「こんなんありかよ! 反則だろこれ!」

 もう一人の騎士がそう悲鳴混じりに叫びつつ、一歩後ろに後退する――その足が、張り巡らされていた糸に触れた。
 それを感じたその騎士は、冷や汗を流しながら慌てて足を戻そうとするが、糸は足を覆う鎧にひっついて離れない。

 その糸を、黒い霧が伝って来た。

 黒い霧が騎士の鎧に触れた瞬間、その足を覆っていた鎧が砕け散る。
 片脚だけ鎧を失った騎士は、バランスを崩しつつも、風の魔法で進行方向の安全を確保しつつ、後退する。
 蜘蛛は天井付近を高速で移動しており、狙いを絞らせない。

「即死攻撃で装備が破壊されるなんて聞いたことねーぞ!」

「とにかく避けろ! これが生身に触れたら――ッ!」

 指示を出していた騎士が被っていた兜が、破裂した。
 極細の糸が風に乗せて垂らされていたようだ。
 兜の中に納めていたその騎士の長い茶髪がパサリと広がってしまい、騎士は慌てて手でひとつに纏め、風の刃を発生させて乱暴に断ち切る。
 普段の戦場なら髪が広がろうと気にしないが、即死属性を持つ相手に対して広がる髪は致命的だからだ。
 ざんばらの髪型になったその騎士を見て、もうひとりの騎士が苦々しい顔になる。

「隊長……っ! くそっ、隊長の婚期がこれ以上遅れたらどうしてくれるんだ!」

「髪くらいあとでいくらでも直せる! 馬鹿なこと言ってないで警戒しろ! あと、あとで話があるからな!」

 隊長と呼ばれた女騎士は、部下の騎士に向かってそう怒鳴ってから、天井の蜘蛛を睨み付ける。
 蜘蛛は悠々と天井を移動していた。

「魔法使いではない以上、髪を失うことくらいどうってことはない、が……この代償は高く付くぞ!」

 隊長の怒りを表すように、彼女の体を一瞬雷が走り、それは無数の雷となって天井の蜘蛛へと空中を走る。
 蜘蛛の張り巡らせた糸を縫うようにして避けた雷撃は、的確に蜘蛛の頭部へと突き刺さった。

「やった! さすが隊長!」

「まだだ! 奴め……雷を受け流した!」

 忌々しげに呟いた隊長の言うとおり、蜘蛛の腹部に突き立ったと思われた雷は、その直前に張られていた糸に誘導され、天井へと流されていた。
 天井が雷によって焦げ、大きな音を立ててひび割れるが、蜘蛛自体はさして傷ついていない。
 それでも多少の影響はあったはずだが、高い魔法への抵抗力を有しているらしく、蜘蛛の体表面が多少焦げている程度だ。

「マジで!? なんつー器用な!」

 そんなのありかよ、と再度呟く部下に対し、隊長は冷静だった。

「即死属性をそのままブレスとして放てる死告龍よりはまだ対処のしようもあるが……生まれたばかりの眷族にしては技巧派すぎるな」

 長期戦を覚悟し、隊長が気合いを入れ直す中、不意に天井付近にいた蜘蛛が、あらぬ方向を向いた。
 警戒する地上の二人を置いて、蜘蛛は高速で移動を始め、その場から去ってしまう。
 しばし呆然としていた二人だが、蜘蛛が戻ってこないとわかり、一息つく。

「なんだったんでしょ? 慌てていたようにも見えましたけど……」

「さあな……とにかく、この場を凌げたことは確かだ」

 そう言いつつ、隊長は壊れて散らばった兜の破片を拾い上げる。
 破片に向かって魔法を行使するが、破片に変化はなかった。

「むぅ……【修復】の魔法が利かないだと……?」

「直せない、なんてことありえるんですか?」

「わからん……もしかすると、即死属性がまだ残留している、のかもしれないが……あれに壊されたものは直せないと考えなければならないだろうな」

 試しに騎士隊長が自分の髪に【修復】の魔法を使ってみると、床に散らばっていた髪がふわりと切断面へと舞い戻り、彼女の髪型は再び元のように戻った。
 大蜘蛛にやられたのではなく、彼女自身が切ったためだろう。
 それを見ていたもうひとりの騎士も、砕かれた自分の鎧の足の部分に【修復】をかけてみるが、その部分が修復されることはなかった。

「うええ……マジっすか……鎧の片脚だけないとか、みっともないなぁ……」

「剣を折られた私よりはマシだろう。とにかく、蜘蛛が戻ってこないうちに探索を進めよう。姫様やキヨズミセイラ様、各国の来訪者など、保護しなければならない方々と一刻も早く合流せねば」

 城内で魔界が発生するという異常事態にあっても、彼女は騎士の矜持に従って勤めを果たすつもりだった。
 なお、頂点である王が彼女の保護対象に入っていないのは、この世界における一国の王というものが純然たる力の頂点であるためだ。
 彼女たちと合流しようがしまいが、王が対処出来ない者に彼女のような一介の騎士が勝てるわけがなく、仮に王と合流したところで、王からは「他の者を守護するように」と言われるのが目に見えていた。
 運良く合流できれば共に行動することになるだろうが、そうでないなら王を探すのではなく他の非戦闘員や重要人物を探すべきなのだ。

「よし、では罠に注意を払いつつ、先に進むぞ。感知魔法を怠るなよ」

 騎士は冒険者ではなく、探索に特別秀でているわけではない。
 だが城勤めの騎士ともなれば、ある程度の状況にも対処出来る程度の対応力はある。
 想定外の状況に慌てふためいていては騎士の中でも上位には立てない。
 ただ――


『うむ。良い心がけですな』


 それぞれが警戒している騎士たちの間から、正体不明の声がするというのは、さすがの騎士隊長にも予想外すぎた。
 騎士たちが距離を取ろうとする前に、怪しげな声の主はすでに魔法を唱え終えており。

『お眠りなさい。あなたたちでは――存在価値不足です』

 その言葉が聞こえるのと同時に、騎士たちの意識は闇へと沈んだ。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第5章 おわり


 大蜘蛛は飛ぶように天井付近を移動しく。
 音を立てずに移動することも出来る大蜘蛛であったが、いまは大きな音を立てながら広い廊下の天井を進んでいた。
 幾重にも入り組んだ廊下は迷宮の如き複雑さであったが、蜘蛛は迷いなく道を選択していた。それは特殊な糸を張り巡らせているためである。
 大蜘蛛はその糸を通じて複雑な道を余すことなく把握している上、その糸から伝わってくる振動などで獲物の存在を感知することが出来るのだ。

 大蜘蛛はその糸を通じ、緊急事態を察していた。

 捕らえた獲物たちを保管している、広い部屋に大蜘蛛が戻って来たとき、その部屋の床は広い範囲に渡って焼き焦げていた。
 大蜘蛛が天井に張った巣には、捕らえた獲物を糸でぐるぐる巻きにして吊してある。
 繭状となった犠牲者は十数人にも及んでいたが、蜘蛛はその数が記憶よりもふたつ少ないことを認識した。
 逃げ出した者がいるのだ。
 素早く複眼を動かし、部屋の状況を詳しく把握する。
 床が焼き焦げているのは、床に張り巡らせておいた感知用の糸を焼き払う目的であると推測できた。
 本来はその糸によって脱走を感知し、同時に足止め用の罠糸が発動するはずだった。
 脱走者は触れる前に糸に気づき、それらを纏めて魔法で焼き払ったのだろう。

 大蜘蛛はその複眼を赤く染め、怒りを露わにする。

 そして、逃げ出した獲物を再度捕らえるべく、行動を開始した。
 この広間から外に繋がる道は複数あるが、その内一本はたったいま大蜘蛛が通ってきた道なので、除外。
 残る道にも大蜘蛛は感知用の糸をかけているため、そこを通ればすぐわかる。
 大蜘蛛が楽に移動できる大きな道と、大蜘蛛が入るには少し小さな道、ふたつの道に張った糸が千切れていた。
 それを感じた大蜘蛛は、脱走したのが複数で、二手に分かれたのだと考えた。
 まずは大蜘蛛の動きが制限される狭い道から追いかけようと、大蜘蛛が道へと近づく。

 その時、大きな道の方から、糸が切られる感覚が伝わってきた。

 大蜘蛛が脚を止めると、さらに連続して糸が切られていくのを感じ取る。
 一方、いかにも人間が逃げやすそうな狭い道の方からは何の感覚もしなかった。
 狭い道の方の糸が千切られていたのはまやかしで、脱走者は大きな道の方にいることを大蜘蛛は確信する。
 翻弄されるところだった大蜘蛛は、その複眼を怒りにますます赤く染め、大きな道へと飛び込んでいった。
 後には巣にかけられたままの犠牲者たちだけが残され、静寂が満ちた――のだが。

 天井の隅に隠蔽の魔法を使って隠れていた、テーナルクとバラノが床に降りる。

 身体強化を用いたテーナルクはバラノを背負ったまま、床に危なげなく着地すると、即座に走り出した。
 向かう先は、先ほど大蜘蛛が大急ぎで戻ってきた道だ。
 テーナルクは何も言わないまま、その道を駆け抜けて大蜘蛛の巣から離れていく。バラノは振り落とされないよう、テーナルクにしがみついていた。
 テーナルクはバラノの言った通りの状況になったことに、なんとも苦い顔をしていた。

(隠蔽の魔法が見破られたら危なかったですが……本当に、気づかれなかったですわね)

 バラノは大蜘蛛の習性や行動パターンから、糸に頼り切っていることに気づいたのだ。
 大蜘蛛の糸は万能で、非常に便利なものであったが、便利すぎてそれを感じるあまりに他の感覚を疎かにしてしまっていた。
 結果、バラノにその弱点を突かれ、まんまと彼女たちの逃走を許す結果になった。
 的確に蜘蛛の習性を読み、見事に安全な逃走を実現させたバラノの手腕に、テーナルクは舌を巻いていた。

(二重三重に策を畳みかけ、大蜘蛛の意識を誘導するなんて……おそらく、今頃大蜘蛛は逃亡者を追い詰めていると疑いもしておりませんわよね)

 それだけバラノが策略家として優れているのだと、テーナルクは認めざるを得ない。
 一方、バラノもまた、テーナルクの優秀さを実感していた。

(王族ですからある程度は当然としても……身体強化、攻撃、感知、補助……様々な魔法を苦も無く扱いこなしている辺り、流石ですね)

 バラノの知る限り、テーナルク並みに多種多様な魔法を扱いこなせる者はそうはいない。
 軍事国家であるバラノの国・ザズグドズ帝国であっても、テーナルクほど、高い水準で魔法を使いこなす魔法使いはそうはいなかった。
 厳密にいえば、国の戦略的方針で特定の魔法の習熟に特化した者――特化職ならばテーナルクを超える魔法使いもいなくはないのだが。

(明らかな内政担当であるテーナルク様でこの水準ということは……他の戦闘向きの王族の評価を改めないといけません)

 この世界においても、人間の強さの肝はあくまで集団戦であり、個々の強さが最重視されるわけではない。数が力なのは聖羅の世界と変わらないのだ。
 だが、同時に個々の戦力というものも、無視できない程度には、戦況を左右しうる要素になりえた。
 特に各国の王族は普段戦場に出ない分、戦力を攻略の際の勘定に入れることが難しい。
 その対策も当然取られてはいるが、『王族が戦場に出てきた瞬間、優位だった戦況がひっくり返された』戦争の例は古今東西、いくらでもあるのだ。

(王族の戦力を上方修正するとなると……七十七番から九十二番までの策は使えませんね……軍部に連絡しておかなければ)

 バラノはテーナルクの背にしがみつきつつ、そう考えていた。
 彼女はルィテ王国に入国する際、ルィテ王国国王のイージェルドと「今後ルィテ王国へ危害を加えない」という制約を交わしている。
 ゆえに、バラノは入国する前に、その時点で考え得るルィテ王国攻略の策戦を思いつく限り書き残しておいたのだ。
 時が経つにつれ。情報が更新されるにつれ。
 意味と確度を失っていく置き土産であったが、帝国のためにできる限り策を残しておいたのである。

(ここから脱出出来なければ意味がありませんが)

 バラノがそう心の中で結論を出し、気持ちを切り替えるのと、ほぼ同時。
 彼女を担いだまま疾走するテーナルクが、不意に後ろを振り向いた。

「……囮の土人形が破壊されましたわね。こっちに来ますわ」




 逃亡者を追いかけたつもりでいた大蜘蛛が追いめたのは、全身に火を灯したまま、ひたすら道なりに進む土人形だった。
 あからさまな囮であり、まんまと騙されたことに気づいた大蜘蛛は、怒りのままにその土人形を破壊する。
 土人形に戦闘能力は全くなく、あっさりと砕けて土塊へと変わった。
 大蜘蛛は再び廊下を全速力で走り、捕らえた獲物をかけてある巣のある広間に戻り――

『やれやれ、人間如きにしてやられるとはね。君には失望しましたぞ』

 部屋の中央にいる『モノ』の存在に気づいて、その脚を止めた。
 その大きさは人間より少し大柄な程度の人型であったが、大蜘蛛はまるで巨大な怪鳥を前にしたかのように硬直していた。
 小刻みに震えているのは恐怖のためだろうか。
 そのモノは極めて人間的な見た目をしていながら、明らかに人間ではないことがわかる見た目をしていた。

 頭部はドラゴンのものであり、背には翼、臀部には尻尾が生えている。

 その上で、それ以外の胴体や手足は人間のものであり、人間の貴族が身に付けるような豪奢な礼服を身に付けているのだから、奇妙な姿であった。
 竜頭人、とでもいうべき姿をしたそのモノは、大蜘蛛に向かってその掌の上にあるものを示す。

『このふたりに関しても、です。この程度の相手に手こずろうとは。恥を知りなさい』

 その掌の上には、水晶のように透明な四角柱がふたつ浮かんでいた。
 こぶし大の大きさであったが、その中には人間の男女がそれぞれ窮屈そうに押しこめられている。魔法を用いて、水晶に本物の人間を封じているようだ。
 閉じ込められている者達は意識がないのか、ぐったりとしてその身を委ねている。
 いずれも服を含めて装備一切を剥ぎ取られた生まれたままの姿であり、仮に意識があったとしても、抵抗する術を全て奪われていた。

 そのふたりは、大蜘蛛が先ほど戦っていたふたりの騎士であった。

 相応に技量が高く、大蜘蛛を苦戦させた存在であったが、その竜頭人にしてみれば障害にならないらしい。
 圧倒的な力の差があることを感じているのか、大蜘蛛は何も鳴かず何も示さず、ただ硬直するのみ。
 そんな蜘蛛を安心させるように、竜頭人はその奇怪な頭部を歪め、辛うじて笑みと呼べるような表情を作った。
 笑みは笑みでも非常に悪魔的な笑みではあったが。

『まあ、それでも君はよくやってくれた方ですがね。――逃げられたのも、あのふたりであるならば、むしろ行幸かもしれませんな』

 後半は独り言として呟かれた。
 そして、竜頭人は頭上に広がる蜘蛛の巣を見上げる。
 彼が見ているのは、その巣にかかった哀れな犠牲者たちだ。

『あれらは儂が回収していきます。君は逃げた人間を追うように。……とはいえ、逃げに徹するあれらを捕まえるのはなかなか難しいでしょう』

 だから、と竜頭人が手を床に向けて翳すと、床から数多の小さな蜘蛛が這い出て来た。
 それらは蜘蛛の幼体という様子ではなく、大蜘蛛をそのまま小さくした複製品という表現の方が正しく思われる。

『これらを使いなさい。数で飽和攻撃を行えば捕まえることもできるでしょう』

 大蜘蛛は小さな蜘蛛を引き連れて、広間から出撃していった。
 それを見送った竜頭人は、再び天井を見上げた。

『さて……これで数は十分でしょうか……欲を言えばもう少し欲しいですな。……とはいえ、取り込めた資源にも限りがありますし……まったく人間如きが、忌々しいことですなぁ』

 ふぅ、と息を吐いた竜頭人の体が、その輪郭を失い、七つの首を持つ巨大なドラゴンの姿へと変貌する。
 七つの首は統一された動きで蠢き、その全ては一つの胴体に繋がっていた。胴体からは翼と尻尾が生えている他、像のように太く短めの足が生えている。
 巨躯の体重は相当重く、その太い四つ足でやっと支えられるようで、広い部屋の床が砕けて陥没しかけていた。歩くだけで猛威を振るう、まさに怪獣と呼ぶに相応しい姿だ。

 神話の如き七つ首のドラゴンが、そこに顕現していた。

 蛇のように長い首を伸ばし、天井の蜘蛛の巣にかけられた犠牲者たちを包む繭に、ひとつひとつ丁寧に食らいつき、繭ごと飲み込んでいく。
 元々身動きの取れない彼ら彼女らは抵抗することなど出来るはずもなく、次々丸呑みにされていった。ひとつ繭を喰らう度、長い首の表側が人の形に盛り上がり、首を下へと落ちていき、胴体へと吸い込まれていく。

 それはまさしく――悪夢のような光景であった。




 大蜘蛛からの逃走を続けていたテーナルクとバラノは、二人同時にその音に気づいた。
 背後から、蜘蛛が移動する際に生じる、極めて不愉快な足音が聞こえてきたのだ。

「まずい……! 追い付かれます!」

「わかっておりますわ! なんで、こんなに早く……!」

 ふたりはある程度広間から離れた段階で、逃げる痕跡を残さないように細心の注意を払っていた。
 廊下中に張り巡らされた蜘蛛の糸をあえて切らずにくぐり抜けたり、時間差で起動する爆発魔法を仕込んだり、大蜘蛛の追跡を避けるためのありとあらゆる手を打っていた。
 いかに蜘蛛が魔物として優秀であったとしても、習性自体は通常の蜘蛛の範疇であれば、十分以上に撹乱できたはずだった。

 しかし、現実にはすぐ背後まで蜘蛛の足音が迫っている。

 テーナルクとバラノはその事実に震えたが、その音をよくよく聞いて、顔を見合わせた。
 足音の性質が大蜘蛛のものと違っていたためだ。
 一匹の大きな蜘蛛が移動する音ではなく、複数の小さな蜘蛛が動いているものだと察するのは容易であった。
 その音は複数の方向から、徐々に近づいて来ている。

「……子を成して、増えたのでしょうか?」

「まさか! ありえませんわ!」

 テーナルクはバラノの発言を強く否定する。
 眷族は魔界から発生するものであり、通常の生物や魔物とは有り様を異にする存在だ。
 普通の魔物と違って生殖機能は持っていないことが多く、魔界が大きくなる度に自動的に増えるとされている。

「魔界が大きくなって、増えたと考える方が妥当ですわ!」

 テーナルクはそう叫ぶが、それはそれでルィテ王国がいまも魔界に飲み込まれ続けているということになるため、楽観できる状況ではない。
 一刻も早くこの場を脱出しなければならない、と彼女たちは同じ事を考える。
 そのふたりの前に、小さな蜘蛛が現れた。
 散らばっている蜘蛛のうちの一匹に遭遇してしまったのだ。
 小さな蜘蛛の複眼がテーナルクたちを捉える。

「くっ……! 喰らいなさい!」

 瞬時に反応したテーナルクが、掌に生み出した火球を蜘蛛に向けて放つ。
 火球は見事に蜘蛛の顔面を捉え、爆発し、その複眼を焼いて牙を砕いた。
 大蜘蛛に比べて、小さな蜘蛛は魔法抵抗力も大したことはないらしく、甲高い悲鳴をあげてのたうち回る。
 その蜘蛛にとどめを刺すことはせず、ふたりは即座にその場から逃げ出した。

「小さい蜘蛛なら、倒せますわね!」

「ですが逃げるべきです!」

「言われなくともわかっていますわ!」

 一体ごとなら大したことのない敵であったが、問題はその数だ。
 いま焼いた蜘蛛の悲鳴に反応して、蜘蛛たちが移動する音が四方八方から響くのを、ふたりは総毛立つ思いで感じていた。
 それらの中には当然あの大蜘蛛もいるはずだ。
 小さな蜘蛛の音に紛れ、逃げられないほど近くまで来られる可能性もあった。

「倒せるとはいえ、死告龍の眷族である以上……っ!」

 テーナルクがそう言いかけた時、今度は複数の小さな蜘蛛が彼女たちの前に現れた。
 即座にいくつもの火球を生み出し、数匹を焼き払ったが、無傷の数匹がその丸い腹部の先端から、糸を射出する。
 通常の蜘蛛の糸と違い、槍状になって飛ぶその糸の先端が、黒い霧のようなものに覆われた。
 テーナルクは血の気が下がる思いをしながら、紙一重で回避し――避けきれなかった糸のひとつが、ドレスの裾に触れる。
 糸に付与された黒い霧は、電気が流れるようにドレス全体に伝播し。

 テーナルクのドレスが、散り散りに崩壊した。

 すでにボロボロだったとはいえ、突然下着姿に剥かれる形になったテーナルクは、一拍遅れてその事実を認識する。
 彼女の思考が真っ白になり、隙が生まれたのを、蜘蛛たちは見逃さない。
 素早く距離を詰め、その毒の牙を持ってふたりを仕留めようと跳びかかった。

「テーナルク様!」

 背にしがみついていたバラノが、そう叫んで注意を促すが、時すでに遅く。
 複数の蜘蛛の牙が、テーナルクとバラノの体に突き立てられる――

 寸前で、小さな蜘蛛たちが不可視の障壁に弾かれた。

 思わぬ衝撃に仰け反った蜘蛛たちの頭部が、直後に吹き荒れたつむじ風によって切断される。
 気を取りもどしたテーナルクが見たのは、半獣人と化した、見覚えのある後ろ姿で。


「てーなるん、大丈夫かにゃ!?」


 独特の呼び方でテーナルクを呼ぶのは、ひとりしかいない。
 フィルカードの獣人姫・ルレンティアだ。
 何かと気にくわないところも気の合わないところもある相手ではあったが、その実力や能力に関して疑うところは全くない。
 そして互いに国を背負って立つ者同士、信頼がそこにはあった。
 思わずテーナルクが安堵の笑みを浮かべたのも、無理からぬことだっただろう。
 それでも、即座にテーナルクは気を引き締め直した。

「小さな蜘蛛以外に、手強い大蜘蛛がいますわ! その奇襲に気をつけてくださいませ!」

 端的に最も重要な情報を伝え、注意を促す。
 ルレンティアはそれを受け、頭頂部の獣の耳をぴんと立てて警戒の意を示す。

「了解だにゃ! ボクのてーなるんを辱めた借りは百倍にして返すにゃ!」

「誰が貴女のですかッ! 辱めも受けておりませんわ! 貴女は、まったくもう! ふざけてる場合ですか!」

 顔を真っ赤にして叫び、怒りを露わにするテーナルクだが、その表情には余裕があった。
 獣人のルレンティアがいれば前衛を任せることが出来る。
 王族の嗜みとして魔法全般を修めているテーナルクだが、決して戦闘が得意というわけではない。特に高速で動き回りながら行う魔法戦闘など、不得手の部類であった。
 だが、前衛として敵に対処してくれるルレンティアがいれば、話は全く違う。
 支援のための魔法を唱えることに集中することが出来れば、テーナルクの修めている多種多様な魔法がより活きるからだ。

「巻きこまないようにわたくしは支援に徹しますわ。それでいいですわね?」

「もちろんだにゃ! 大蜘蛛とやらの警戒、よろしくにゃ!」

 端的に必要なやり取りを交わし、テーナルクとルレンティアが組んで蜘蛛たちに立ち向かう。
 ルィテ王国とフィルカード共和国。
 国は違えど、王族に数えられるふたりの姫が組んだ時の実力は確かで、その場にいた小さな蜘蛛たちは次々と倒されていった。
 即死属性を扱えても、攻撃が当たらなければ意味が無い。
 ある程度数を減らしたところで、蜘蛛たちは勝機がないことを悟ったのか、散り散りに逃げ出した。
 ふたりは蜘蛛たちが戻ってこないことを確かめた上で、息を吐く。

「ふぅ、なんとかなりましたわね」

「うぇぇ……気持ち悪いにゃ……蜘蛛の体液がなんともいえない匂いだし……」

 ルレンティアの攻撃方法は基本的に長く伸ばした手の爪で引き裂くというものだ。
 一瞬で上手く切断すれば体液塗れになることはないのだが、乱戦の中では必ずしも的確に爪を震えるわけではない。
 結果、返り血も含めてルレンティアの全身は蜘蛛の体液に濡れていた。
 胸に巻いた布も濡れてしまっていたが、幸いというべきなのか、体液自体が色の付いたものだったため、透けるようなことはなかった。
 本人は気にしないかもしれないが。

「助かりました。ルレンティア様。テーナルク様もありがとうございます」

 テーナルクの背からようやく降りることができたバラノが、ルレンティアとテーナルクに対して頭を下げる。
 ルレンティアは飄々とした調子で、その礼を受け取った。

「こんな状況だからにゃ。堅苦しいのは抜きで行くにゃ。脱出にお互い力を尽くそうにゃ」

「無論、出来る限りのことをさせていただきます。私に出来ることは少ないですが……」

 ルレンティアとバラノが協力態勢をきっちり築き上げたところで、テーナルクが口を開く。

「アーミア様はどこにいらっしゃるのですの?」

「さすがてーなるん。気づくよにゃあ」

 そうルレンティアが笑い、廊下の隅に目線をやると、その場所が歪み、隠蔽の魔法で隠れていたアーミアと聖羅が現れた。
 聖羅自身には魔法は利かないが、周りに幻影を被せることで隠れていたのである。

「大丈夫ですか? テーナルクさん、バラノさん……」

「……体に怪我はないみたい」

 心配そうに声をかけてくる聖羅と、淡々と事実を指摘するアーミア。
 ふたりの様子にテーナルクとバラノは変わったところはなさそうだ、と感じ――

 聖羅に抱かれている小さなドラゴンに気づいて唖然とした。

 テーナルクもバラノも、なんというべきか言葉を一瞬失う。
 奇妙な沈黙の時間を経て、最初に口を開いたのはルレンティアであった。

「とりあえず、ここから移動するにゃ。安全を確保して、それからお互い状況を確かめるにゃ」

 その意見を否定する者は一人もいなかった。

 小さくなった死告龍を抱えたバスタオル一枚の聖女・清澄聖羅。
 獣化しているとはいえ、胸に一枚布を巻いているだけの格好の獣人姫・ルレンティア。
 半透明のレースを幾重にも重ねた神聖法衣と、布を下着代わりに要所を隠している姫巫女・アーミア。
 ドレスが崩壊し、下着のみの姿になっている王国第一姫・テーナルク。
 蜘蛛の糸が巻き付けられ、所々が破れかけた聖女風ドレスを身に付けている軍略家・バラノ。

 うら若き乙女がするには、あまりにも悲惨かつ散々な姿をした彼女たち。
 この場に異性がいないことが、彼女たちにとっては数少ない幸運であった。

つづく
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