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黎明媚態

露出系、羞恥系の18禁小説を書いています。関連の同人・版権作品のレビューも書きます。18歳以下の閲覧禁止。

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第5章 おわり


 大蜘蛛は飛ぶように天井付近を移動しく。
 音を立てずに移動することも出来る大蜘蛛であったが、いまは大きな音を立てながら広い廊下の天井を進んでいた。
 幾重にも入り組んだ廊下は迷宮の如き複雑さであったが、蜘蛛は迷いなく道を選択していた。それは特殊な糸を張り巡らせているためである。
 大蜘蛛はその糸を通じて複雑な道を余すことなく把握している上、その糸から伝わってくる振動などで獲物の存在を感知することが出来るのだ。

 大蜘蛛はその糸を通じ、緊急事態を察していた。

 捕らえた獲物たちを保管している、広い部屋に大蜘蛛が戻って来たとき、その部屋の床は広い範囲に渡って焼き焦げていた。
 大蜘蛛が天井に張った巣には、捕らえた獲物を糸でぐるぐる巻きにして吊してある。
 繭状となった犠牲者は十数人にも及んでいたが、蜘蛛はその数が記憶よりもふたつ少ないことを認識した。
 逃げ出した者がいるのだ。
 素早く複眼を動かし、部屋の状況を詳しく把握する。
 床が焼き焦げているのは、床に張り巡らせておいた感知用の糸を焼き払う目的であると推測できた。
 本来はその糸によって脱走を感知し、同時に足止め用の罠糸が発動するはずだった。
 脱走者は触れる前に糸に気づき、それらを纏めて魔法で焼き払ったのだろう。

 大蜘蛛はその複眼を赤く染め、怒りを露わにする。

 そして、逃げ出した獲物を再度捕らえるべく、行動を開始した。
 この広間から外に繋がる道は複数あるが、その内一本はたったいま大蜘蛛が通ってきた道なので、除外。
 残る道にも大蜘蛛は感知用の糸をかけているため、そこを通ればすぐわかる。
 大蜘蛛が楽に移動できる大きな道と、大蜘蛛が入るには少し小さな道、ふたつの道に張った糸が千切れていた。
 それを感じた大蜘蛛は、脱走したのが複数で、二手に分かれたのだと考えた。
 まずは大蜘蛛の動きが制限される狭い道から追いかけようと、大蜘蛛が道へと近づく。

 その時、大きな道の方から、糸が切られる感覚が伝わってきた。

 大蜘蛛が脚を止めると、さらに連続して糸が切られていくのを感じ取る。
 一方、いかにも人間が逃げやすそうな狭い道の方からは何の感覚もしなかった。
 狭い道の方の糸が千切られていたのはまやかしで、脱走者は大きな道の方にいることを大蜘蛛は確信する。
 翻弄されるところだった大蜘蛛は、その複眼を怒りにますます赤く染め、大きな道へと飛び込んでいった。
 後には巣にかけられたままの犠牲者たちだけが残され、静寂が満ちた――のだが。

 天井の隅に隠蔽の魔法を使って隠れていた、テーナルクとバラノが床に降りる。

 身体強化を用いたテーナルクはバラノを背負ったまま、床に危なげなく着地すると、即座に走り出した。
 向かう先は、先ほど大蜘蛛が大急ぎで戻ってきた道だ。
 テーナルクは何も言わないまま、その道を駆け抜けて大蜘蛛の巣から離れていく。バラノは振り落とされないよう、テーナルクにしがみついていた。
 テーナルクはバラノの言った通りの状況になったことに、なんとも苦い顔をしていた。

(隠蔽の魔法が見破られたら危なかったですが……本当に、気づかれなかったですわね)

 バラノは大蜘蛛の習性や行動パターンから、糸に頼り切っていることに気づいたのだ。
 大蜘蛛の糸は万能で、非常に便利なものであったが、便利すぎてそれを感じるあまりに他の感覚を疎かにしてしまっていた。
 結果、バラノにその弱点を突かれ、まんまと彼女たちの逃走を許す結果になった。
 的確に蜘蛛の習性を読み、見事に安全な逃走を実現させたバラノの手腕に、テーナルクは舌を巻いていた。

(二重三重に策を畳みかけ、大蜘蛛の意識を誘導するなんて……おそらく、今頃大蜘蛛は逃亡者を追い詰めていると疑いもしておりませんわよね)

 それだけバラノが策略家として優れているのだと、テーナルクは認めざるを得ない。
 一方、バラノもまた、テーナルクの優秀さを実感していた。

(王族ですからある程度は当然としても……身体強化、攻撃、感知、補助……様々な魔法を苦も無く扱いこなしている辺り、流石ですね)

 バラノの知る限り、テーナルク並みに多種多様な魔法を扱いこなせる者はそうはいない。
 軍事国家であるバラノの国・ザズグドズ帝国であっても、テーナルクほど、高い水準で魔法を使いこなす魔法使いはそうはいなかった。
 厳密にいえば、国の戦略的方針で特定の魔法の習熟に特化した者――特化職ならばテーナルクを超える魔法使いもいなくはないのだが。

(明らかな内政担当であるテーナルク様でこの水準ということは……他の戦闘向きの王族の評価を改めないといけません)

 この世界においても、人間の強さの肝はあくまで集団戦であり、個々の強さが最重視されるわけではない。数が力なのは聖羅の世界と変わらないのだ。
 だが、同時に個々の戦力というものも、無視できない程度には、戦況を左右しうる要素になりえた。
 特に各国の王族は普段戦場に出ない分、戦力を攻略の際の勘定に入れることが難しい。
 その対策も当然取られてはいるが、『王族が戦場に出てきた瞬間、優位だった戦況がひっくり返された』戦争の例は古今東西、いくらでもあるのだ。

(王族の戦力を上方修正するとなると……七十七番から九十二番までの策は使えませんね……軍部に連絡しておかなければ)

 バラノはテーナルクの背にしがみつきつつ、そう考えていた。
 彼女はルィテ王国に入国する際、ルィテ王国国王のイージェルドと「今後ルィテ王国へ危害を加えない」という制約を交わしている。
 ゆえに、バラノは入国する前に、その時点で考え得るルィテ王国攻略の策戦を思いつく限り書き残しておいたのだ。
 時が経つにつれ。情報が更新されるにつれ。
 意味と確度を失っていく置き土産であったが、帝国のためにできる限り策を残しておいたのである。

(ここから脱出出来なければ意味がありませんが)

 バラノがそう心の中で結論を出し、気持ちを切り替えるのと、ほぼ同時。
 彼女を担いだまま疾走するテーナルクが、不意に後ろを振り向いた。

「……囮の土人形が破壊されましたわね。こっちに来ますわ」




 逃亡者を追いかけたつもりでいた大蜘蛛が追いめたのは、全身に火を灯したまま、ひたすら道なりに進む土人形だった。
 あからさまな囮であり、まんまと騙されたことに気づいた大蜘蛛は、怒りのままにその土人形を破壊する。
 土人形に戦闘能力は全くなく、あっさりと砕けて土塊へと変わった。
 大蜘蛛は再び廊下を全速力で走り、捕らえた獲物をかけてある巣のある広間に戻り――

『やれやれ、人間如きにしてやられるとはね。君には失望しましたぞ』

 部屋の中央にいる『モノ』の存在に気づいて、その脚を止めた。
 その大きさは人間より少し大柄な程度の人型であったが、大蜘蛛はまるで巨大な怪鳥を前にしたかのように硬直していた。
 小刻みに震えているのは恐怖のためだろうか。
 そのモノは極めて人間的な見た目をしていながら、明らかに人間ではないことがわかる見た目をしていた。

 頭部はドラゴンのものであり、背には翼、臀部には尻尾が生えている。

 その上で、それ以外の胴体や手足は人間のものであり、人間の貴族が身に付けるような豪奢な礼服を身に付けているのだから、奇妙な姿であった。
 竜頭人、とでもいうべき姿をしたそのモノは、大蜘蛛に向かってその掌の上にあるものを示す。

『このふたりに関しても、です。この程度の相手に手こずろうとは。恥を知りなさい』

 その掌の上には、水晶のように透明な四角柱がふたつ浮かんでいた。
 こぶし大の大きさであったが、その中には人間の男女がそれぞれ窮屈そうに押しこめられている。魔法を用いて、水晶に本物の人間を封じているようだ。
 閉じ込められている者達は意識がないのか、ぐったりとしてその身を委ねている。
 いずれも服を含めて装備一切を剥ぎ取られた生まれたままの姿であり、仮に意識があったとしても、抵抗する術を全て奪われていた。

 そのふたりは、大蜘蛛が先ほど戦っていたふたりの騎士であった。

 相応に技量が高く、大蜘蛛を苦戦させた存在であったが、その竜頭人にしてみれば障害にならないらしい。
 圧倒的な力の差があることを感じているのか、大蜘蛛は何も鳴かず何も示さず、ただ硬直するのみ。
 そんな蜘蛛を安心させるように、竜頭人はその奇怪な頭部を歪め、辛うじて笑みと呼べるような表情を作った。
 笑みは笑みでも非常に悪魔的な笑みではあったが。

『まあ、それでも君はよくやってくれた方ですがね。――逃げられたのも、あのふたりであるならば、むしろ行幸かもしれませんな』

 後半は独り言として呟かれた。
 そして、竜頭人は頭上に広がる蜘蛛の巣を見上げる。
 彼が見ているのは、その巣にかかった哀れな犠牲者たちだ。

『あれらは儂が回収していきます。君は逃げた人間を追うように。……とはいえ、逃げに徹するあれらを捕まえるのはなかなか難しいでしょう』

 だから、と竜頭人が手を床に向けて翳すと、床から数多の小さな蜘蛛が這い出て来た。
 それらは蜘蛛の幼体という様子ではなく、大蜘蛛をそのまま小さくした複製品という表現の方が正しく思われる。

『これらを使いなさい。数で飽和攻撃を行えば捕まえることもできるでしょう』

 大蜘蛛は小さな蜘蛛を引き連れて、広間から出撃していった。
 それを見送った竜頭人は、再び天井を見上げた。

『さて……これで数は十分でしょうか……欲を言えばもう少し欲しいですな。……とはいえ、取り込めた資源にも限りがありますし……まったく人間如きが、忌々しいことですなぁ』

 ふぅ、と息を吐いた竜頭人の体が、その輪郭を失い、七つの首を持つ巨大なドラゴンの姿へと変貌する。
 七つの首は統一された動きで蠢き、その全ては一つの胴体に繋がっていた。胴体からは翼と尻尾が生えている他、像のように太く短めの足が生えている。
 巨躯の体重は相当重く、その太い四つ足でやっと支えられるようで、広い部屋の床が砕けて陥没しかけていた。歩くだけで猛威を振るう、まさに怪獣と呼ぶに相応しい姿だ。

 神話の如き七つ首のドラゴンが、そこに顕現していた。

 蛇のように長い首を伸ばし、天井の蜘蛛の巣にかけられた犠牲者たちを包む繭に、ひとつひとつ丁寧に食らいつき、繭ごと飲み込んでいく。
 元々身動きの取れない彼ら彼女らは抵抗することなど出来るはずもなく、次々丸呑みにされていった。ひとつ繭を喰らう度、長い首の表側が人の形に盛り上がり、首を下へと落ちていき、胴体へと吸い込まれていく。

 それはまさしく――悪夢のような光景であった。




 大蜘蛛からの逃走を続けていたテーナルクとバラノは、二人同時にその音に気づいた。
 背後から、蜘蛛が移動する際に生じる、極めて不愉快な足音が聞こえてきたのだ。

「まずい……! 追い付かれます!」

「わかっておりますわ! なんで、こんなに早く……!」

 ふたりはある程度広間から離れた段階で、逃げる痕跡を残さないように細心の注意を払っていた。
 廊下中に張り巡らされた蜘蛛の糸をあえて切らずにくぐり抜けたり、時間差で起動する爆発魔法を仕込んだり、大蜘蛛の追跡を避けるためのありとあらゆる手を打っていた。
 いかに蜘蛛が魔物として優秀であったとしても、習性自体は通常の蜘蛛の範疇であれば、十分以上に撹乱できたはずだった。

 しかし、現実にはすぐ背後まで蜘蛛の足音が迫っている。

 テーナルクとバラノはその事実に震えたが、その音をよくよく聞いて、顔を見合わせた。
 足音の性質が大蜘蛛のものと違っていたためだ。
 一匹の大きな蜘蛛が移動する音ではなく、複数の小さな蜘蛛が動いているものだと察するのは容易であった。
 その音は複数の方向から、徐々に近づいて来ている。

「……子を成して、増えたのでしょうか?」

「まさか! ありえませんわ!」

 テーナルクはバラノの発言を強く否定する。
 眷族は魔界から発生するものであり、通常の生物や魔物とは有り様を異にする存在だ。
 普通の魔物と違って生殖機能は持っていないことが多く、魔界が大きくなる度に自動的に増えるとされている。

「魔界が大きくなって、増えたと考える方が妥当ですわ!」

 テーナルクはそう叫ぶが、それはそれでルィテ王国がいまも魔界に飲み込まれ続けているということになるため、楽観できる状況ではない。
 一刻も早くこの場を脱出しなければならない、と彼女たちは同じ事を考える。
 そのふたりの前に、小さな蜘蛛が現れた。
 散らばっている蜘蛛のうちの一匹に遭遇してしまったのだ。
 小さな蜘蛛の複眼がテーナルクたちを捉える。

「くっ……! 喰らいなさい!」

 瞬時に反応したテーナルクが、掌に生み出した火球を蜘蛛に向けて放つ。
 火球は見事に蜘蛛の顔面を捉え、爆発し、その複眼を焼いて牙を砕いた。
 大蜘蛛に比べて、小さな蜘蛛は魔法抵抗力も大したことはないらしく、甲高い悲鳴をあげてのたうち回る。
 その蜘蛛にとどめを刺すことはせず、ふたりは即座にその場から逃げ出した。

「小さい蜘蛛なら、倒せますわね!」

「ですが逃げるべきです!」

「言われなくともわかっていますわ!」

 一体ごとなら大したことのない敵であったが、問題はその数だ。
 いま焼いた蜘蛛の悲鳴に反応して、蜘蛛たちが移動する音が四方八方から響くのを、ふたりは総毛立つ思いで感じていた。
 それらの中には当然あの大蜘蛛もいるはずだ。
 小さな蜘蛛の音に紛れ、逃げられないほど近くまで来られる可能性もあった。

「倒せるとはいえ、死告龍の眷族である以上……っ!」

 テーナルクがそう言いかけた時、今度は複数の小さな蜘蛛が彼女たちの前に現れた。
 即座にいくつもの火球を生み出し、数匹を焼き払ったが、無傷の数匹がその丸い腹部の先端から、糸を射出する。
 通常の蜘蛛の糸と違い、槍状になって飛ぶその糸の先端が、黒い霧のようなものに覆われた。
 テーナルクは血の気が下がる思いをしながら、紙一重で回避し――避けきれなかった糸のひとつが、ドレスの裾に触れる。
 糸に付与された黒い霧は、電気が流れるようにドレス全体に伝播し。

 テーナルクのドレスが、散り散りに崩壊した。

 すでにボロボロだったとはいえ、突然下着姿に剥かれる形になったテーナルクは、一拍遅れてその事実を認識する。
 彼女の思考が真っ白になり、隙が生まれたのを、蜘蛛たちは見逃さない。
 素早く距離を詰め、その毒の牙を持ってふたりを仕留めようと跳びかかった。

「テーナルク様!」

 背にしがみついていたバラノが、そう叫んで注意を促すが、時すでに遅く。
 複数の蜘蛛の牙が、テーナルクとバラノの体に突き立てられる――

 寸前で、小さな蜘蛛たちが不可視の障壁に弾かれた。

 思わぬ衝撃に仰け反った蜘蛛たちの頭部が、直後に吹き荒れたつむじ風によって切断される。
 気を取りもどしたテーナルクが見たのは、半獣人と化した、見覚えのある後ろ姿で。


「てーなるん、大丈夫かにゃ!?」


 独特の呼び方でテーナルクを呼ぶのは、ひとりしかいない。
 フィルカードの獣人姫・ルレンティアだ。
 何かと気にくわないところも気の合わないところもある相手ではあったが、その実力や能力に関して疑うところは全くない。
 そして互いに国を背負って立つ者同士、信頼がそこにはあった。
 思わずテーナルクが安堵の笑みを浮かべたのも、無理からぬことだっただろう。
 それでも、即座にテーナルクは気を引き締め直した。

「小さな蜘蛛以外に、手強い大蜘蛛がいますわ! その奇襲に気をつけてくださいませ!」

 端的に最も重要な情報を伝え、注意を促す。
 ルレンティアはそれを受け、頭頂部の獣の耳をぴんと立てて警戒の意を示す。

「了解だにゃ! ボクのてーなるんを辱めた借りは百倍にして返すにゃ!」

「誰が貴女のですかッ! 辱めも受けておりませんわ! 貴女は、まったくもう! ふざけてる場合ですか!」

 顔を真っ赤にして叫び、怒りを露わにするテーナルクだが、その表情には余裕があった。
 獣人のルレンティアがいれば前衛を任せることが出来る。
 王族の嗜みとして魔法全般を修めているテーナルクだが、決して戦闘が得意というわけではない。特に高速で動き回りながら行う魔法戦闘など、不得手の部類であった。
 だが、前衛として敵に対処してくれるルレンティアがいれば、話は全く違う。
 支援のための魔法を唱えることに集中することが出来れば、テーナルクの修めている多種多様な魔法がより活きるからだ。

「巻きこまないようにわたくしは支援に徹しますわ。それでいいですわね?」

「もちろんだにゃ! 大蜘蛛とやらの警戒、よろしくにゃ!」

 端的に必要なやり取りを交わし、テーナルクとルレンティアが組んで蜘蛛たちに立ち向かう。
 ルィテ王国とフィルカード共和国。
 国は違えど、王族に数えられるふたりの姫が組んだ時の実力は確かで、その場にいた小さな蜘蛛たちは次々と倒されていった。
 即死属性を扱えても、攻撃が当たらなければ意味が無い。
 ある程度数を減らしたところで、蜘蛛たちは勝機がないことを悟ったのか、散り散りに逃げ出した。
 ふたりは蜘蛛たちが戻ってこないことを確かめた上で、息を吐く。

「ふぅ、なんとかなりましたわね」

「うぇぇ……気持ち悪いにゃ……蜘蛛の体液がなんともいえない匂いだし……」

 ルレンティアの攻撃方法は基本的に長く伸ばした手の爪で引き裂くというものだ。
 一瞬で上手く切断すれば体液塗れになることはないのだが、乱戦の中では必ずしも的確に爪を震えるわけではない。
 結果、返り血も含めてルレンティアの全身は蜘蛛の体液に濡れていた。
 胸に巻いた布も濡れてしまっていたが、幸いというべきなのか、体液自体が色の付いたものだったため、透けるようなことはなかった。
 本人は気にしないかもしれないが。

「助かりました。ルレンティア様。テーナルク様もありがとうございます」

 テーナルクの背からようやく降りることができたバラノが、ルレンティアとテーナルクに対して頭を下げる。
 ルレンティアは飄々とした調子で、その礼を受け取った。

「こんな状況だからにゃ。堅苦しいのは抜きで行くにゃ。脱出にお互い力を尽くそうにゃ」

「無論、出来る限りのことをさせていただきます。私に出来ることは少ないですが……」

 ルレンティアとバラノが協力態勢をきっちり築き上げたところで、テーナルクが口を開く。

「アーミア様はどこにいらっしゃるのですの?」

「さすがてーなるん。気づくよにゃあ」

 そうルレンティアが笑い、廊下の隅に目線をやると、その場所が歪み、隠蔽の魔法で隠れていたアーミアと聖羅が現れた。
 聖羅自身には魔法は利かないが、周りに幻影を被せることで隠れていたのである。

「大丈夫ですか? テーナルクさん、バラノさん……」

「……体に怪我はないみたい」

 心配そうに声をかけてくる聖羅と、淡々と事実を指摘するアーミア。
 ふたりの様子にテーナルクとバラノは変わったところはなさそうだ、と感じ――

 聖羅に抱かれている小さなドラゴンに気づいて唖然とした。

 テーナルクもバラノも、なんというべきか言葉を一瞬失う。
 奇妙な沈黙の時間を経て、最初に口を開いたのはルレンティアであった。

「とりあえず、ここから移動するにゃ。安全を確保して、それからお互い状況を確かめるにゃ」

 その意見を否定する者は一人もいなかった。

 小さくなった死告龍を抱えたバスタオル一枚の聖女・清澄聖羅。
 獣化しているとはいえ、胸に一枚布を巻いているだけの格好の獣人姫・ルレンティア。
 半透明のレースを幾重にも重ねた神聖法衣と、布を下着代わりに要所を隠している姫巫女・アーミア。
 ドレスが崩壊し、下着のみの姿になっている王国第一姫・テーナルク。
 蜘蛛の糸が巻き付けられ、所々が破れかけた聖女風ドレスを身に付けている軍略家・バラノ。

 うら若き乙女がするには、あまりにも悲惨かつ散々な姿をした彼女たち。
 この場に異性がいないことが、彼女たちにとっては数少ない幸運であった。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第六章 1


 聖羅、テーナルク、ルレンティア、アーミア、そしてバラノ。
 五人の女性は、現在広い廊下に繋がる狭い廊下の入り口に、結界を張って隠れていた。
 仮に大蜘蛛が現れても狭い廊下の奥に逃げ込むことができ、場合によっては広い廊下に出て戦うことも視野に入れた備えだ。

「つまり……結局、何が起きているのか、正確に把握できている者は、魔界の主であろう死告龍様を含めて、いないというわけですね」

 ザズグドズ帝国の軍略家・バラノは、合流することができた聖羅たちからこれまでの話を聞き、そう呟いた。
 バスタオル一枚の聖羅は申し訳なさそうに、胸に抱いた小さなドラゴン――死告龍のリューを撫でながら頷く。
 リューは気持ちよさそうに目を閉じており、うたた寝をしている様子だった。
 魔界が死告龍の由来だとすれば、リューにとってこの空間は家そのものだ。
 人間五人と違って、余裕のあるその態度もある意味当然ともいえる。
 聖羅に抱かれているという状況も一因ではあろうが。

「リューさんはこの通りでして……この現象はリューさん自身にも制御不能なのかもしれません」

「魔界化は自然と起こりうるものだから、制御出来てなくてもおかしくはないけどにゃー」

 困ったものだという思いを隠すことなく、ルレンティアは聖羅の言葉に賛同する。
 獣人であるルレンティアは、即座に戦闘に入ることも考慮し、その下半身を獣化したまま戻していなかった。上半身は腕以外ほぼ人間のままであるため、その豊満な乳房は布を巻き付けて隠している。
 本人は開放的な風土を持つ国の出身であるがために、その格好については気にしていないようだ。
 そんなルレンティアが出した予想について、テーナルクは納得が行かない様子だった。

「でも、それにしてもリスクばかりが目立ちませんこと? 本体が弱くなっては、規格外の魔界化も意味がありませんわ」

 現在、テーナルクはアーミアから譲られた、裾が短くなったログアンの神官服を身に付けていた。
 アーミア自身は神聖法衣があるために着れない服だが、テーナルクにその制限はない。
 ゆえに、アーミアはテーナルクにその神官服を渡したのであった。
 本人としては、ルィテ王国の王族がログアンの神官の格好をするということに思うところがないわけではなかったが、五人のうちまともな格好が出来ているのは二人だけ。
 まともに服を着れているだけでも感謝すべきなのだから、文句を言えるわけがなかった。

「……いや、これだけの規模の大きさの魔界なら、隠れるのに徹すれば問題ない。死告龍様の場合、セイラさんに会いに出てきたから、わたしたちの前にいるだけ」

 精密で極薄のレースを重ねた構造であるがゆえに、向こう側が透けて見えてしまう神聖法衣を身に付けたアーミアは、愛用の杖を体の前に構え、周囲に向かって張った結界を維持している。
 本人が結界術を得意とするだけあって、結界は敵に存在を知られることもなく、完璧に彼女たちを守っていた。さらに本命の結界の外にも、警戒用の結界が張られており、見つかりそうになれば即座に対応出来る状態を保っていた。

「アーミア様のご意見に賛同いたします。知能の減衰は致命的ではありますが、この魔界を自在に移動できるとすれば、人海戦術も意味を成しません。さらに魔族の発生や眷族の増殖なども鑑みるに……逃げ回り続けていさえすれば、消耗戦で勝てますから」

 軍略家たるバラノは、彼女の視点からアーミアの意見を支持する。
 彼女は五人の中でまともな格好が出来ている二人のうちの一人だ。
 バラノは蜘蛛に囚われた際、その身に纏っていた聖女風ドレスがボロボロになってしまったが、現在は修復されている。
 テーナルクのドレスは即死属性を纏った糸の攻撃によって破壊されてしまったために戻せなかったのだが、彼女のドレスは純粋な力で破かれただけであったために、修復の魔法で直すことが出来たのだ。

「あー、確かに、この広い魔界の中からその小さな本体を探すのは難しいにゃあ」

「ここまで常識外れの魔界だと、どう対処するのが正しいのかわかりませんね……」

 五人は頭を悩ませる。
 無論、もっとも単純な魔界への対処法である『魔界を生み出した主を倒す』ということを五人が考えなかったわけではない。
 聖羅は中立的な心情故に、リューを殺すということ自体に抵抗を覚えていた。
 他の四人は、主を倒すことでは解決せず、より状況が悪化する可能性を危惧していた。

 そして、五人全員『この状態の死告龍でも倒しきれないかもしれない』ということも考えていた。

 聖羅は絶対防御の力しか持たないし、バラノは軍略家であるが直接戦闘はできない。
 残る三人は王族であったり、国を代表する巫女であったりする分、並みの戦士や魔法使い以上の力がある。
 それでも、戦闘に特化した存在ではない。
 最強の種族と言われるドラゴンを相手にするには、少々心もとない戦力であった。

(幼体化していても、ドラゴンはドラゴン……)

(わたくしたち三人が束になってかかっても、敵わないかもしれませんわね)

(一度敵対したら、もう戻れないにゃ。いま賭けるには分が悪いにゃあ)

 三人は冷静な戦力分析の結果、分の悪い勝負だと判断していたのだ。
 さらに、その賭けに軽々に手を出すのを躊躇わせる情報もある。
 テーナルクとバラノが実例であり、彼女たちが確認した情報として、眷族に捕らえられた人々はまだ殺されていないということだ。
 聖羅たちも、妖精たちが捕らわれても殺されはしていなかったのを確認している。
 この魔界に取り込まれた者達は、何らかの理由で生かされているのかもしれない。
 そうだとすると、下手に魔界を崩壊させることで、生存者をかえって減らす結果になる可能性もあった。

「ひとまず今晩は休みましょう。休んで、明日からどう動くか決めましょう」

 そのバラノの提案は特に反対意見もなく受け入れられた。

「でも……休むにしても、辛いですね……食料も何もありませんから……」

 そう聖羅が呟くのと、そのお腹が鳴るのはほぼ同時だった。
 魔界に捕らわれたのは昼頃のことであり、現在の時刻はすでに夕刻をすぎている。
 昼食をとる前に魔界に取り込まれてしまったため、彼女たちは昼食をとれないまま、さまよい歩く羽目になっていた。
 お腹が空いて当然である。
 決して大きな音ではなかったとはいえ、周りに聞こえる程度には腹の虫の音を響かせてしまった聖羅は、恥ずかしさで顔を真っ赤にする。
 そんな聖羅をフォローするように、ルレンティアのお腹もくうと鳴った。

「確かに、おなかすいたにゃあ……動き回ったしにゃ」

 魔物との戦闘中、もっとも機敏に動き回っていたのはルレンティアだった。
 当然その消耗は激しい。その空腹を表すように、その頭頂部にある獣の耳がへたりと寝ている。普段から存在している耳だが、現在ルレンティアは獣化状態にあり、少し大きめになっていることもあって、余計に目立っていた。
 思わず頬を緩めてしまった聖羅だが、そんな場合ではないとすぐに顔を引き締めた。

「眷族って……食べられるのでしょうか」

 何気ない聖羅の呟きに、他の四人はぎょっとした顔をする。

「一応、不可能ではない……けど」

 現状眷族と呼ばれて、頭に浮かぶのが蜘蛛の眷族であることが問題であった。

「セイラさんのお国では、虫は食事に含まれますの?」

「文化として虫食はありますね。もちろん、食用に育てた虫であって、森の中で虫を捕ったり生で食べたりはしませんが……あ」

 そこまで答えてから、聖羅は元の世界の文化が誤解を受けていることに気づいて、慌てて付け加えた。

「文化として存在することはしますが、どちらかといえば特殊かつ少数派な文化です。この世界でもそうだとは思いますが、私のいた世界の食に対する探究心は執念すら感じることがあるほどでして。普通は食べられないものを、何日も、何週間もかけて食べられるように加工して……そこまでして食べることもあるんです」

 その聖羅の補足を聞き、他の四人はほっとした表情になる。

「……実は虫が主食だった、とか言われたらどうしようかと思った」

「確かに。今後セイラさんにご提供するお食事をどうするべきか迷うところでしたわ」

「や、やめてくださいね。私も虫を好んで食べたい訳ではないので……」

「虫を食べる文化……確か、フィルカードにはそういう文化がありませんでしたか?」

「にゃいにゃいにゃい! フィルカードにはそもそも虫自体少ないし……もしかして、タコやカニのことかにゃ? あれは脚が多いだけで、分類するなら魚にゃ」

「湖にタコやカニがいるんですか?」

 フィルカードは湖の上に存在する湖上国家、だと聞いていた聖羅は思わず尋ねていた。
 ルレンティアは頷き、タコやカニを使った料理のことを話し出し――余計に大きく腹の音が響き渡った。

「思い出したら食べたくなって来たにゃあ……」

「話を元に戻しましょう。眷族を食べることはできますし、調理次第ではあの蜘蛛も食べられるようになるとは思いますが……現実問題として、あれを仕留めて食べられるでしょうか。私見ですが……難しいと思います」

 バラノの指摘に異を唱えるものはいなかった。

「調理器具も調味料も何もありませんものね。調理技術自体は習得していますが、普段と環境が違いすぎます」

「焼くくらいしかできない」

「水の確保も問題だにゃ。水を操るならともかく、飲み水を生み出すのは難しいにゃ」

「そうなんですか? ……水を生み出す魔法はあるのでは?」

 聖羅は朝起きた際、使用人のクラークにお願いして顔を洗う用の水を出してもらっている。クラークが使えるのなら、この場にいる彼女たちが使えないわけがないと思っていた。
 それに対し、ルレンティアは聖羅の言葉を肯定した。

「確かに、水の魔法はあるけどにゃ」

 言いつつ、ルレンティアは翳した掌の上に水の塊のようなものを作り出した。
 渦を巻いて回転する水球は、見た目は完全に水である。

「でもこれはボクの魔力がそれっぽい形になっているだけにゃ。何かを洗うような用途には使えても、身体の維持に必要な水分にはならないにゃ。火にかけても沸騰しないし、凍らせることも出来ないにゃ」

 試しに、とばかりにルレンティアはもう片方の掌に炎を生み出す。
 水の塊と炎の塊を重ね合わせると、一瞬光が生じて、両方ともが消滅した。
 水は熱されることはなく、水蒸気になることもなく、ただ消滅していた。
 
「こんな風に消えるだけだにゃ。魔法で作られる炎や水は、あくまで魔力がそれっぽく形を作っているだけにすぎないのにゃ」

「……となると、魔法で飲み水を作り出すのは無理なわけですか」

「だにゃあ」

 この場所では食事や寝床の確保が難しい。
 そのことを改めて認識した五人は、顔を見合わせた。

「もう少しだけ移動を――」

 聖羅がこの場からの移動を提案しようとした。
 思わず抱きしめる力が強くなった、その動きに反応してか、彼女に抱かれていたリューがぱちりと目を開く。

「くるる?」

「あ、リューさん。ごめんなさい。起こしてしまいましたか」

 慌てて謝る聖羅に対し、リューは楽しげに鳴き、聖羅の首筋に頭を擦りつける。
 犬猫のような動きをするリューに苦笑しつつ、聖羅は撫でてあげながら話しかけた。

「リューさん、私たちはいまから水か食べ物がある場所に移動しようと――」

「ちょっと待ったせいらん!」

 勘働きに優れたルレンティアは、全身の毛が逆立つような悪寒を覚えて、咄嗟にそう叫んでいた。
 聖羅はその叫びに驚いて言葉を途中で止めたが、しかしすでに遅かった。

 突如、廊下の迷宮全体が震え出す。

 全員が座っていたため、倒れる者こそいなかったが、立ち上がるのも難しいほどの揺れ。
 地震大国出身の聖羅が推測するに、震度7弱ほどの激しい揺れだった。

「な、何が起き……っ!」

「まずい! 結界に感! 狭い廊下側!」

 叫ぶアーミアの言葉を肯定するように、狭い廊下を埋め尽くすようにして、小さな蜘蛛の眷族たちが近づいて来ていた。
 蜘蛛たちも慌てふためいているようにも見えたが、聖羅たちを認識すると同時に、一斉に襲いかかってくる。

「この状況で……!」

「くっ、ほの――」

 ルレンティアが歯噛みし、テーナルクが炎の魔法で応戦しようとした時。
 聖羅に抱かれたままのリューが、その小さな口から巨大なブレスを吐いた。
 幸いにして聖羅が先頭になる位置関係であったがゆえに、そのブレスに巻きこまれるものは、蜘蛛だけで済んだ。
 小さな蜘蛛たちは逃げる暇も場所もなく、ブレスに巻きこまれて吹き飛ばされていく。
 ブレスは余波だけで廊下の床や天井に亀裂を生じさせ、最終的に突き当たった壁で大爆発を起こした。
 地震の震動とはまた種類の違う振動が、聖羅たちのいる場所にまで響いてくる。

「うわぉ……」

 思わず聖羅は唖然とした声を出していた。
 小さくなってもリューはドラゴンであり、死告龍。
 最強の種族にして、最悪の個体の名は伊達ではなかった。
 リューの一撃によって、蜘蛛たちの脅威は去った。
 だが、空間全体の震動は全く収まらない。

「全員、近くに寄って離れないでください!」

 バラノがそう叫び、テーナルクの腕を引いてルレンティアと肩を組む。
 突然の行動にルレンティアは驚きつつも、アーミアを抱え上げた。
 そして、テーナルクが聖羅と腕を組んだ。
 五人がひとかたまりになったと同時に。

 広い廊下を満たすほどの、大量の水が流れてきた。

 それを見たルレンティアが、何時になく真剣な表情で抱え上げたアーミアに声をかける。

「アーミア!」

「了解! みんな、なるべく小さくまとまって!」

 全員が身体を寄せ合い、小さく丸まった五人と一頭を、アーミアの結界術が包み込む。
 ボールのように構築された結界は水を通さず、五人は荒波に揉まれつつも、溺れることはなかった。
 だが、瞬く間に増える水量によって、為す術もなく押し流され――気づけば見渡す限り水だらけの、大海原に放り出されていた。まだ陽は沈みきっていなかったが、白い霧のようなものが視界を限りなく悪くしていた。
 五人と一頭を包み込む結界が、船のようになって大海原に浮かんでいる。
 遠くの水面で、魚らしきものが跳ねているのが見えた。
 リューを抱きしめて固まっていた聖羅は、恐る恐る顔をあげ、周囲の状況を確認して、唖然とした。

「確かに、ここなら水と食べ物はありそうですけど……」

 聖羅の呟きに、リューは不思議そうに首を傾げる。
 死告龍の魔界はその全容が把握できないほど、複雑怪奇に広がっているようだ。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第六章 2

 廊下が入り組んだ迷宮にいた聖羅たち。
 水と食べ物のある場所に行きたい、と聖羅がリューに向かって口にしたところ、突如流れてきた大量の水によって、大海原のような場所に移動させられてしまった。
 現在、五人と一頭はアーミアの張った結界を船のようにして水面に浮かんでいる。
 周囲に敵らしきものの姿はなく、一安心したところで、バラノが聖羅に向かって言う。

「セイラさん、死告龍様に『魔界の外に出たい』とはおっしゃらないでください」

 他の三人もバラノに同意なのか、何も言わなかった。
 それを見た聖羅はおそらくなにかしらの妥当な理由があるのだろうとは思ったが、その理由に思い至ることはできなかった。
 なので、直接聞いてみることにする。

「どうして、ですか?」

「ここに至る過程を考えてください。もし死告龍様が完全にこの空間を制御出来ているとしたら、大量の水で物理的に押し流す、という移動方法は取らないはずです」

「そうですわね。空間と空間を繋げればいいだけですわ。それこそ、扉のようなものを用意して」

「もしセイラさんが魔界の外に出たいと口にすれば、おそらくですがここにある大量の水も一緒に外に噴き出すでしょう」

「魔界が発生したのは王城……ルィテ王国の中心地」

「まー、たいへんなことになるよにゃあ」

 王城で魔界が発生している以上、周辺住民の避難は始まっているだろうが、家屋や家財道具を持って逃げることは出来ない。
 魔法がある世界であるために、人が死ぬことと違って物が壊れることは取り返しがつきやすいが、洪水が起きて街全体に被害が出れば、ルィテ王国の国力の低下は避けられない。
 それが起きないよう、聖羅がリューに頼んで魔界の外に出してもらうという手段は取れないのだ。

「……それをバラノ様が最初に言うとは思いませんでしたが」

 ルィテ王国の国力の低下は、侵略を目論むザズグドズ帝国のバラノからすれば歓迎するべきことのはずだった。
 例え直接軍隊に被害が出なくとも、それを支えるルィテ王国自体が疲弊すればそれだけ侵略しやすくなるのだから。
 そして今回のようなケースでは、バラノが積極的にそれを画策したとは言えない。あくまでバラノは魔界から脱出するため、という体であれば「ルィテ王国に危害を加えない」という契約に引っかかることはないはずだった。

「確かに放っておく手がないわけではありませんでしたが……それを選ぶには賭けの要素が強すぎます。私自身が本当に気付いていないならともかく、大きな被害が出るのを予測してしまいましたから、契約に抵触する恐れもありますし」

 それでも黙っていればいいことではあったが、気付いてしまった以上は指摘してしまった方が確実に安全なのだ。
 契約とは、表面的な文面も大事だが、要は心のありようを誓うということであり、自ら手を下さないなら大丈夫、とは言いきれない。
 バラノが国に殉じて死ぬ覚悟も決めた上で、この場に立っていることは確かだが、別に彼女は死にたがりというわけではなかった。
 可能な限り自分も生き残る道を模索するのは当然だ。
 聖羅は自分の考えの及ばないところで駆け引きが成されていることを改めて感じ、ひとまず彼女たちの言うとおりにしようと頷く。

「わかりました……あ、でもそもそもリューさん、また寝てしまいましたね……」

 聖羅が抱えるリューは、また目を閉じて眠りについていた。
 その自由奔放な様子に五人の女性たちは溜息を吐く。
 話している間に、ルレンティアとアーミアが周囲の水や魚の状態を調べ終わっていた。

「水は魔法で出来たものじゃないから、飲み水に使えそうだにゃ。魚も、普通に食べられるものみたいだにゃ。遠くの水場と空間を接続したのかにゃ?」

「あるいは、元々城の地下にあった地底湖や地下水を流用しているのかもしれない。どうなの、テーナルク?」

「王城の地下にこれほど大規模な水源はなかったはずですわ」

「だとすると空間を接続したのが濃厚?」

「まあ、ともあれ、これなら水と食料は確保できるにゃ。あーみん、結界はどれくらい持つかにゃ?」

「あと数時間は余裕。けど、早めの拠点確保は必要」

「了解だにゃ。じゃあちょっと行ってくるにゃ」

 ルレンティアはそういうと、いきなり胸を隠していた布を脱ぎ捨てた。
 あっけにとられる聖羅の目の前で、ルレンティアがアーミアの張った結界をすり抜け、水の中へと飛び込んでいく。
 そのあまりの自然な動きに聖羅は何も言えず、テーナルクやバラノは動じていなかったので、聞くことも出来なかった。
 だが、その聖羅の動揺を察してか、テーナルクが柔らかく笑みを浮かべてみせる。

「大丈夫ですわ。水中はルレンティア様の慣れ親しんだ環境ですから」

「……猫なのに、水が嫌いなわけじゃないんですね。私の世界では一般的に猫は水を嫌がるものですので、ちょっと意外でした」

 とはいえ、湖の上に存在する国の代表なのだから、全く泳げないわけがないとも聖羅は思っていたが。
 頭でわかっていたのと、実際に目にしたときの衝撃は違う。

「猫が水が嫌いというのは、間違っていませんけどね。セイラさんの認識と同じく、基本的には猫は水が嫌いです」

「ルレンティアの場合、生まれた時から湖の上だったということもあるし、猫の獣人とはいえ、人の要素の方が多いから」

「獣人の力もあって、ルレンティア様はフィルカードでも屈指の泳ぎ手なのですわ」

 そんな会話を残された四人がしている間に、潜っていっていたルレンティアが水面に浮上してきた。何気なくそちらを向いた聖羅は、ルレンティアが手にしているものに驚く。
 それは、石で出来た船だった。
 手こぎボートくらいの小さなものだが、沈まずに水上へと浮かび、内側から水を排出すると水面でぷかぷかと安定する。

「まず一隻だにゃ。水深は案外浅いところもあるみたいで助かったにゃ」

「海底の石を切り取って来たんですか!?」

 聖羅は驚きのあまり声をあげ、足下を見る。
 結界は半透明なため、水中が見えているが、その底は見えない。結構な深さがあるのは間違いなさそうだった。
 そんなところから石を船の形に切り取り、手に持って浮かんで来たのだという。
 ルレンティアは水面に浮かびつつ、えへん、と自慢げにその豊かな胸を張った。

「フィルカードの民は水の民にゃ。水場で苦労はさせないから、安心してほしいにゃ。この船には魔法がかけてあるから、皆が乗っても沈まないにゃ」

「ありがとうございます、ルレンティア様。……やはり、フィルカードと水場で競うのは自殺行為ですね」

「にゃはは! 水際での戦いなら、ボクひとりで千の軍勢だって壊滅させてみせるにゃ!」

 バラノは礼を言いつつも、フィルカードを攻略するときのことを考えているようだった。それに対し、ルレンティアも勝ち気な台詞で返す。
 傍でそれを聞いてしまった聖羅は、堂々と口にするバラノもどうかと思ったが、それを笑って受けとめているルレンティアも剛気だと感じるのだった。

 その後、ルレンティアは何度か水中に潜り、瞬く間にそれなりの広さの水上拠点を作り上げてしまった。

 いくつかの船を浮かべ、それらを上手く結合することで、広いスペースの確保に成功している。
 湖上にあるというフィルカードがどういう国か、聖羅は少しだけ理解できたような気がした。

(形状などを工夫すれば、石だって水に浮かぶのはわかりますが……この規模の石材が壊れずに建てられるのは、技術と魔法あってのことですよね……)

 聖羅の認識でいうと、古代ギリシャの石造りの建物が水の上に浮いている、というほどに奇妙な感覚だった。
 そういう意味では魔法のある世界ならではの光景であるといえ、楽しんでばかりもいられないとは思いつつ、彼女はこういった光景を見に、いつかフィルカードにも訪れてみたいと思うのだった。

「それにしても……ルーさんは王族の方なのに、建築技術も納めていらっしゃるんですね」

 建築技師を軽んじるつもりはないが、王族がやることかと言えばそうではないだろう。
 その聖羅の疑問は、この世界の基準に合わせてもおかしくないことだったらしく、ルレンティアが特に妙な顔をすることはなかった。

「もちろん、本職には敵わないけどにゃ。ゼロから水上に拠点を作るのはフィルカードの民の嗜みにゃ。今回は材料が石だからちょっと難しいけど、普通の木材を使えるにゃら、子供でもこれくらいの拠点は作れるにゃ」

 水上に上がってきたルレンティアは、ぶるぶる、とそれこそ獣のように体を震わせて髪の毛などから水気を払いながらこともなげに言う。

「特にフィルカードは王が模範を示さなければならない国だからにゃ。一通りのことはやれるように教育されるにゃ。王族の慣習として、十歳になると全裸で国の庇護下から放り出されるし、覚えておかないとその時死ぬにゃ」

「ぜ、ぜんっ!? き、厳しすぎませんか……?」

 獅子は我が子を千尋の谷に落とす。
 可愛い我が子にわざと試練を与え、その器量を試して一人前へと育て上げるとは言うが、人間が全裸で放り出されるのは厳しいというレベルではない。
 フィルカードは湖の国であるのだから、放り出される先は水上であるはずで、仮に聖羅のいた世界の者ならそんなことをされて生き残れる者は皆無であろう。
 しかし、魔法のあるこの世界ではその認識は当てはまらないものらしく、ルレンティアは平然と続けた。

「それで生き残れないようじゃ、王族としての資質不足ってことだにゃ。生き残るのは大前提。一年間は国に戻れにゃい決まりなんだけど、その間にいかに立派な拠点を築くかが問われるにゃ」

 ルレンティアからフィルカードの王族の風習について話を聞いていると、事情を知っているらしいアーミアが深く溜息を吐いた。

「その話は聞いてる……ルレンティアは湖の魚達を手懐けて、湖底に拠点を築いたって。一年間ほとんど姿を見せずに過ごしてたから、死亡したって言われたけど、一年経ったその日に、フィルカードのど真ん中に巨大な拠点を浮上させて、当時の王の側近たちの度肝を抜いたとか」

「む~。でもパパはボクならそれくらい出来るはずとか言って、全く驚いてくれなかったにゃ~。それが心残りだにゃ」

「いえ、普通は度肝を抜かれますわ。フィルカード王の感覚がおかしいのです」

「同じ試練で、当時のフィルカードと同程度の規模の拠点を築き上げてくるような方ですからね。確か湖に点在する無法者たちを探し出しては腕っ節で叩きのめして従え、人手を確保したんでしたっけ?」

「ですわね。普通は十歳の子供がやることじゃないでしょうに。一度だけお会いしたことがありますが、噂に違わぬ豪傑ぶりでしたわね。わたくしの世代では敵対関係が終わっていて良かったと思いますわ」

「うちはそれを今後攻略していかないといけないのですよ……はぁ」

 しみじみとテーナルクとバラノも呟く。
 そんなとんでもないエピソードを聞かされた聖羅は、改めて一緒に行動している彼女たちが、この世界の基準でもとんでもない存在なのだということを思い知らされる。
 ルレンティアはいつの間にか食料の魚まで人数分採って来ていて、そつがない。

(……この人たちは、本当に特別な存在なんですよね)

 異世界から来た、というだけの存在である聖羅は、彼女たちの存在の価値の高さを知るにつれ、ますます自分との間に隔たりを感じてしまう。
 本来であれば、自分が触れあうこともできなかったであろう高みの存在。
 それが、偶然たまたま異世界に召還され、なおかつ希有な加護をバスタオルに宿すに至ったが故に、同格のように扱われている。

(この人たちはその立場に似合うだけの努力を、実績を積み上げている……)

 自分はただ幸運でここにいて、生きているだけだというのに、だ。
 それを意識する度に、聖羅はいたたまれない気持ちになるのだ。
 そして、その感情こそ、聖羅がこの世界の存在たちと完全に打ち解けられない最大の理由であった。

「さて、魚を焼いていくにゃ。もう少し待っててにゃ、せいらん」

 そのルレンティアの、聖羅を優先する気遣いが、平々凡々を自覚する彼女の心にトゲを残す。
 聖羅は、微笑んで礼を言う形で応えるしかない。

 そんな聖羅の様子を、じっと見つめている者がいた。




 翌朝。
 ルレンティアが築いた水上拠点の上で、聖羅たちは無事目を覚ました。
 魔法を一切用いることが出来ず、暗闇では目が見えない聖羅を除き、四人は後退で見張りを行っていたが、特に魔物に襲われることはなかった。
 寝床として用意されたのは、ルレンティアが水底から回収した海藻を乾燥させ、敷き詰めただけのものだ。
 普通ならばそんなところで寝れば体が痛くなって仕方ないだろうが、聖羅はいつもと変わらぬ睡眠を取れていた。
 無論、バスタオルの効果である。
 他の四人も、それぞれ魔法などで対策は取れたらしく、疲れた様子を見せる者はひとりもいなかった。

「少し視界が晴れて来たにゃ」

「見渡す限り水、ですけどね……」

「死告龍様の魔界は、本当に広すぎますわね」

「あちらの方向に、何か見える」

 そうアーミアが指し示した方向に、全員が注目する。
 所々に霧がかかっているため、視界は悪かったが、確かに何らかのシルエットのようなものが他の者達にも見えた。

「島……でしょうか?」

「かにゃあ? 結構大きなもののように思えるにゃ」

「この状況を打破する手がかりが、なにかしらあるかもしれませんわね」

「……行ってみよう」

「幸い拠点や食料は確保できましたが、いつまでもこのままというわけにはいきませんものね」

 五人と一頭を乗せた水上拠点が、大きな影のようなものに向かって動き出す。
 ルレンティアの創った水上拠点は船を基盤としているため、少し風の魔法を使えば移動することが出来る。
 移動しながら朝食の魚を焼いていると、聖羅が抱いていたリューが目覚めた。

「あ、リューさん。目が覚めましたか。おはようございます」

 リューは大きくあくびをした後、聖羅の体に自らの体を擦りつけ――ふと、胸元から聖羅の顔を見上げて首を傾げた。

「くるる?」

 その表情が少し心配しているように感じた聖羅は、内心どきりとする。
 リューに聖羅の複雑な心境が理解出来たとは思えないが、どこか元気がないのを察されたのだろう。

「なんでもありませんよ、リューさん。リューさんもお魚、食べますか?」

 笑顔を浮かべてリューにそう問いかける聖羅。
 その魚を準備をするのは自分ではないため、申し訳なく思うところはあったが、死告龍たるリューを大人しくするためならば、必要なことだと理解してくれるという想いもあった。
 そして実際、ルレンティアは聖羅の言葉を聞いて即座にリュー用の魚を焼き始め、焼けたものを聖羅に渡してくれた。

「ありがとうございます。ルーさん」

 お礼を言いつつ、聖羅は美味しそうに焼けている魚をリューの口元に翳す。
 リューはそれに美味しそうに食らいつき強靱な顎の力で噛み千切り、いまは小さな前脚で残りの焼き魚を聖羅の方へと押しやる。
 その行動を見た聖羅は、かつてリューと出会ったばかりの頃、リューが仕留めたグリフォンらしきものを自分に向けて押しやってくれたことを思い出す。
 当然、生のグリフォンを聖羅が食べることは出来なかったし、その頃はまだリューの真意がわからなかったが、いまならわかる。
 リューの気持ちを理解した聖羅は、ふっと優しい笑顔を浮かべた。

「私はあとでいただきますから、これはどうぞリューさんが食べてください」

 そういって再びリューに焼き魚を向けた聖羅だが、リューが動かないのを不思議に思った。トカゲのようなドラゴンの表情は掴みづらいのだが、目を見開いて驚いているような気がした。
 不思議に思って首を傾げていると、同じように周りの者達も驚いているのがわかった。
 聖羅としては特にそれほど驚きを与えることをした覚えがなかったので、困惑する。

「あ、あの? 皆さん、何か……?」

 そう聖羅が問いかけると、最初に応えたのはルレンティアだった。

「いや……ちょっと驚いただけにゃ。それが――本当のせいらんの笑顔なんだにゃ」

「でも、考えてみれば、そうですわよね……セイラさんは、王族でも、貴族でも、ましてや本当は聖女でもないのですから」

「テーナルク様……それは、立場上聞き逃せない発言ですが、大体事情は理解しました」

「本当に聡い人ですこと。忌々しいですわ」

「それはお互い様でしょう」

 聡い彼女たちは、何かに納得が出来たらしかった。
 聖羅としては困惑するしかない状況である。
 そんな聖羅に対し、唯一言葉を発していなかったアーミアが口を開く。
 そして、聖羅に向けて核心の問いを発した。

「セイラさん、もしわたしの勘違いであれば謝る。ひとつ答えて欲しい」

 王城が魔界に変質する前に、交わしていた会話の続きを。
 彼女たちの前提を覆してしまう内容を。

「セイラさんの元いた世界は――嘘や偽りがあって当たり前の世界だった?」

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第六章 3


 清澄聖羅は、自分のことを平々凡々の一般庶民だと考えている。

 実際、この場にいる他の四人の女性に比べれば、特別秀でた能力はなく、こちらの世界にとっての異世界出身であること以上の、特別な出自であるわけでもない。
 だが、そんな聖羅でも――あるいはだからこそ――アーミアの問いかけを聞いて、自分と相手とで、前提とする常識に齟齬がある事に気付いた。
 聖羅のいた世界が「嘘や偽りが当たり前に存在する世界なのかどうか」を訊くということは、それはつまりこちらの世界では「嘘や偽りが当たり前ではない」ということだ。
 その事実を認識した聖羅は、いままでうっすらと感じていた違和感の正体がそれだということを、ようやく明確に認識することが出来た。

(そういうことだったんですね……理解できました)

 聖羅は平凡ではあっても愚鈍ではない。
 アーミアの質問からこちらの世界では嘘や偽りが普通に存在しないことを理解した。
 そして同時に、そんな世界で『平然と嘘や偽りを告げることが出来る自分』が、相当な優位に立てることにも考えが至っていた。
 相手が嘘を吐けないのなら、情報戦において優位に立つことは容易だ。対して自分の側は虚偽のし放題となれば、そのアドバンテージは計り知れない。
 ゆえに聖羅はここでアーミアの問いに対し、「そうではない」と答えるべきだったのかもしれない。
 嘘や偽りを自然と口に出来るということを知られるのは、マイナスの印象を抱かれる可能性も高く、今後自分の言動を信じて貰いにくくなるということも考えられる。
 だが。

「そう、ですね。私の元いた世界では……悪徳ではありましたが、嘘や偽りは当然のように行われていました。約束したことを直前になって平然と覆す人がいたり、聞こえのいい嘘の話で人を騙し、金銭などを不当に奪い取る犯罪が横行していたり……しました」

 聖羅は真実をそのまま告げていた。それが自分の立場を悪くすると知っていても、真実をそのまま口にすることを選んだ。
 聖羅は平凡ではあっても、悪辣ではない。
 絶対的な優位を捨て、不利な立場に甘んじることを躊躇いはしなかった。
 それは愚かな行いであるともいえ、一歩間違えば完全に孤立した立場に置かれかねない選択だった。

 だが、そんな選択をしてしまう聖羅だからこそ――最悪の展開は回避出来た。

 聖羅とアーミアのやり取りを聞いて、最初に動いたのはテーナルクだった。
 彼女はアーミアを睨むように見て、口を開く。

「アーミア様、どういうことですの? どうしてそういう話になったのか、説明していただけますか」

「魔界に呑まれる直前、セイラさんと雑談をした。その内容は好きなもの、嫌いなものについて。嫌いなものについて語る際、セイラさんは『約束を守らない人が嫌い』と言った」

 アーミアから端的に示された経緯を聞いて、テーナルクを含むその場にいた全員が、納得したと言わんばかりの反応をする。
 この世界において、『約束を守らない人が嫌い』というのは、聖羅の世界で『殺人鬼が嫌い』というのと変わらない。
 殺人鬼は忌避されるものだが、好き嫌いの基準で語られる存在ではないだろう。ゆえに、アーミアは自分と聖羅とで前提とする常識に齟齬があることに気づけたのである。
 経緯を理解したテーナルクは、深々と溜息を吐く。

「だからといって、何もこの場で……いえ、この場だからこそ、ですわね……」

 テーナルクがちらりと見たのは、バラノの方だった。
 ルィテのテーナルク、ログアンのアーミア、フィルカードのルレンティア。それぞれ国での立場はあれど、三国は友好関係にあり、この三人は基本的には味方である。
 もし「三人が結託して自分を騙そうとしている」と、嘘や偽りに慣れた聖羅に判断されてしまえば、今後の交流に悪影響が生じかねない。それは避けねばならなかった。

 だが、この場には敵対国家であるザズグドズ帝国のバラノがいる。

 バラノは唯一、三人と立場を異にする存在であり、いわば第三勢力だった。
 三人と足並みの合わないことが、この場合は良い方向に働くのだ。

「……ログアンの姫御子様はこういった搦め手は苦手だと思っておりましたが」

「実際苦手。だから、共有したかった」

 聖羅が「嘘や偽りを普通に口に出来る世界から来た」ということにアーミアが気付けたのは偶然だ。
 他の三人が気付くかどうかは運次第であり、うまく立ち回ればアーミアだけがその情報を握ることは出来ただろう。
 さらにその上で、自らとのみ共謀できるように聖羅を説得できれば、情報戦においてアーミアは他の三国を完全に出し抜き、状況を思い通りに操作できる可能性もあった。
 ルレンティアはまた性質が違うが、政治や交渉に長けたテーナルクやバラノであれば、当然その道を模索したはずだ。
 アーミアがそうしなかったのは、彼女自身がそういった交渉戦に特化していないということを自覚しているためである。
 さらに加えて。

「それに――セイラさんに謀略は無理だと思った。それは皆も感じたはず」

 アーミアがこの段階まで気付いた事実を口にしなかったのは、それ自体が聖羅の仕掛けた罠ではないかと考えていたからだ。
 テーナルクやルレンティアも同席した場で行われた、最初の顔合わせの際、三人は聖羅のことを「底の知れない存在」だと感じた。本人が言うような一般人には思えなかったのである。
 そのために育てられ、教育を受けた自分たちと対等に駆け引きをし合える存在なのではないかと考えたのだ。
 それは世界そのものの前提が違うことによる差であったわけだが、聖羅の背後に控える死告龍という最悪のカードが切られた時のことを考えると、聖羅を警戒しすぎるに越したことはなかった。
 ゆえに、いまのタイミングまでアーミアは「聖羅のいた世界が虚偽を前提とする世界」である可能性を黙っていたのだが。

「セイラさんは本人の言うとおり――極普通の、人間」

 奇しくも、死告龍たるリューに向けた無防備な笑顔がアーミアの警戒を解いた。
 聖羅が、真実を隠し、人を騙し、利を得ようとする、そんな悪辣な人物ではないと。
 そのことをアーミアは読み取り、自分が――ひいてはログアンだけがアドバンテージを得る道を放棄した。
 聖羅の性質も考えれば、もし聖羅を取り込むことに成功したとしても、その謀略が良くないタイミングで他の三国に露見する危険性の方が高かったためだ。
 そのアーミアの説明に、他の三人も納得したようだった。

「あーみんらしい判断だと思うにゃ」

「そうですわね……こうなってみると、セイラさんとの交流開始が遅くなったのは、かえって良かったかも知れませんわね」

「……テーナルク様だけがこの情報を握っていた時のことを考えると、震えが来ますよ」

 バラノはそう言って息を吐く。
 もしテーナルクがもっと早くから聖羅と交流を持っていたらどうなっていただろうか。
 話す回数が増えれば増えるほど、仲が進展すればするほど、聖羅の世界の真実に、聖羅の持つ特質に気付く可能性は高まっていただろう。
 一対一で交流している間にそのことに気付いたのなら、当然テーナルクは聖羅の特質をルィテ王国の利益のために秘する道を選んだだろう。
 そうなっていた場合、他の三国はかなり不利な立場に立たされることになっていたはずだった。

「理想をいえば、第三者視点の立場には死告龍様や大妖精様がいてくれればよかったんだけど。死告龍様はその状態だし……ともあれ、セイラさん。わたしたちの言葉が信じられなければ、そのお二方に訊いてみるといい。お二方は、わたしたちの立場を斟酌しはしない」

「アーミアさん……大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 聖羅はアーミアに気を遣われている事に気づいていた。
 なるべく聖羅が不安に思わないように、立場の違う存在からそれぞれの話を聞くように促されているのだと。

(それにしても……基にする常識が違うと気付いたからといって……それにすぐ対応できるあたり、この人たちは、本当に……)

 いまだに元の世界の常識を引き摺る聖羅とは、やはり出来が違うのだ。
 それはそれ相応の教育を受けているかどうかの違いではあるのだが、聖羅は改めてこの四人と腹の探り合い、駆け引きのし合いをするには自身が力不足であることを自覚する。

(幸い、この人達は善良な方達のようですし……ここまで気を遣ってもらいましたしね)

 彼女たちを信じて任せるべきかもしれないと聖羅は考えていた。
 国を背負っている立場にある以上、彼女たち本人の善良さは必ずしも絶対ではないが、そもそも本気で策謀の張り合いになったら聖羅に勝ち目はないのだ。
 最低限の警戒心を持っておくことは忘れられなかったが、聖羅は彼女たちを信用すると決め、少し心が軽くなったことを感じる。

「聖羅さんの特性については、この五人の間での秘密ということにいたしましょう。皆さんも、それでよろしいですわね?」

 テーナルクがそう口にすると、全員が躊躇なく頷いた。

「外に漏らしてもいいことないからにゃあ」

「不要な疑心を生むだけ」

「セイラさんは善良な方ですし、問題ないと思います」

(……言われているほど、私は善良ってわけでもないと思いますけど)

 聖羅は善良ではあっても、平凡な存在である。
 なるべく誠実であろうとは努めているものの、彼女はそれを死ぬまで貫き通せはしないとも考えていた。
 いざというとき、自己保身に走ることがないとは言えないのだ。
 とはいえ、少なくともリューやこの場にいる四人の助けがあるうちは、強いて保身に走る必要が生じることがそうそうあるとも思えない。
 聖羅にも人並みの欲はあるものの、かといって溢れんばかりの金銀財宝を差し出されると困ってしまう庶民でもあるのだ。
 衣はさておき、食と住が最低限保証されているいまの状態で、全く困ることはなかった。

「せいらんのことはひとまずそれでいくにゃ。さしあたっても、この魔界からどう脱出するかを考えないとにゃ」

 聖羅の特質がわかっても、彼女たちが現在やるべきことは変わらない。
 ルレンティアがそう締めくくり、全員が意識を切り替える。

「ほい、せいらん。まずはご飯を食べるにゃ」

 そういって、ルレンティアが石を削り出して作ったお椀に注いだスープを聖羅に向けて差し出す。
 目に見える言動こそいままでと変わらなかったが、聖羅はルレンティアたちの気配がどことなく柔らかくなったのを感じていた。
 いままでが刺々しかったわけではないが、どこか一線を引いている感覚があった。
 しかし、真実が明らかになった今、彼女たちは聖羅を必要以上に警戒することがなくなっていた。
 その柔らかな気配は、聖羅を不要な気負いから解放する。

「ありがとうございます、ルーさん。……いつのまに作ってたんですか?」

「話を聞いている間にちょちょいっとにゃ」

 得意げにいうルレンティアから、聖羅はスープを受け取る。
 石の器は見た目重そうに思えたが、相当薄く切り出しているのか、思ったよりは軽い。女性の聖羅が片手で支えられる程度だ。さらに魔法を用いて強度や熱伝導まで調整しているのか、不安な感じは全くしなかった。
 中身は柔らかく煮込まれた魚と海藻らしきもののスープだ。
 器と同じように石から作られた匙を用いて、聖羅がそれを口に運ぶ。魚は柔らかく煮込まれており、海藻の味がよくしみ出したスープは、聖羅の身体を内側から暖めてくれた。

「美味しいです。……この魚、しっかり処理されているようですが、刃物はどうやって……あ、いえ、なんでもないです」

 聖羅が質問を途中でやめたのは、ルレンティアがその手をひらひらと翳したためだ。
 彼女は、植物型の魔物を切断できるほど鋭い爪を持つ。
 それを上手く使えば、魚の調理くらいは容易いことだと言われなくてもわかったのだ。

「爪がなくても魔法で切断できるけどにゃ。食材を魔法で調理すると、なぜだか美味しくならにゃいんだよにゃあ」

「魔法で処理をすると、その者の魔力が食材に移ってしまうからだと言われていますね。地域によってはその方が好まれる場合もあるようですが。……確か、ログアンにそういう料理がありませんでしたか?」

「捧食のこと? あれはグランドジーグ様への感謝の気持ちを伝え、今後も共に生きていくことを誓う祭典の時に作られるもので、どちらかといえば儀式」

「色んな風習があるんですね……」

 様々な人が生きている世界である以上、色々な風習や慣習が生まれるのは当然だったが、聖羅は改めて知的好奇心を刺激されるのを感じていた。
 相互理解が進み、妙な警戒や気負いがなくなったことで、そういったことに意識を向ける余裕ができてきていた。

(リューさんのお気に入りの狩り場に連れて行ってもらう約束をしていましたっけ)

 息抜きに出かける提案をされていたことを聖羅は思い出す。
 思い出した流れで、腕の中のリューを見ると、リューは聖羅の顔をじっと見つめていた。
 観察されていることに気付いた聖羅は、少し気恥ずかしくなり、スープを飲むついでにその器で顔を隠す。
 その際、スープの中で海藻のような具がゆらめているのが見えた。

「そういえば、海藻……みたいなものも生えてたんですね」

 周りの水が塩水ではないのは、確認済みだ。
 風景だけを見れば完全に大海原だが、環境的にはどちらかといえば地底湖に近いらしい。
 そんな場所で海藻のようにしか見えない水草が採れたことは、よく考えれば不思議なことだ。
 その認識は間違っていなかったらしく、ルレンティアが溜息交じりに答える。

「水底に普通に生えてたにゃ。食べられる種類のもので良かったけどにゃ……なんで生えてたんだかにゃあ」

「いくら水草の成長が早いとはいえ、半日やそこらで生えていていい規模ではなかったんですよね」

 そうバラノが確認すると、ルレンティアは頷いて肯定した。

「そうだにゃ。かといって何年も前から生えていた感じでもなくて……わけがわからないにゃ」

「元々、魔界という中では方向感覚や時間が狂うことがままありますが……この魔界はまた別格ですね……中と外で時間の流れが大きく変わっている可能性も出てきました」

 バラノは真剣な表情で分析を続けている。

「流れる時間が遅くなっているならまだしも、早くなっていたとしたら困りますわね……」

 テーナルクはそうぼやく。王城が魔界に呑まれているという状況は、極めて深刻な事態であり、それが長期化すればそれだけでルィテの国力の低下は免れない。できる限り早く事態を解決したいのが本音であった。
 五人が真剣に話し合っているうちに、遠くに見えていた何かの影の姿が霧の向こうに見えてくる。

「みんな、念のために戦闘態勢を取るにゃ」

「言われなくとも」

「バラノ様とセイラさんは後方に下がっていてくださいませ」

 戦える三人が前に出て警戒をし、残るふたりは並んで後方に退いた。
 聖羅は絶対防御を持つ自分は最前線に立つべきではないかと思ったが、リューを抱えているため、大人しく後方に下がる。
 仮に戦いに巻きこまれても、リューならば平気な可能性も高いが、いまのリューがどれほどの防御力を持っているかはわからない。
 いざとなれば自分の身で守ることも考えつつ、聖羅は近づいてきたその影をしっかりと見据えた。

「これは……島……でしょうか?」

「大きな島ですね……全景が視界に収まりません」

 それはかなり大きな島のように見えた。
 木々が生い茂り、中央には小高い山らしき岩肌も見える。
 聖羅が持つイメージでいえば、冒険物の物語で登場人物がよく漂着する無人島、というべき島だ。
 山を囲むように森が周囲を覆っていて、島の形は今ひとつ判別できない。

「砂浜が見えるにゃ。あそこに船を接岸するにゃ」

 ルレンティアが上陸できそうな砂浜を見いだし、その砂浜へ水上拠点を押しあげた。
 碇はなかったが、浮力を与えていた魔法を切ってしまえば、自然と水上拠点の重さで砂浜に拠点が埋まり、波の力程度では流されないようになる。
 水上拠点から五人と一頭が降りた時、先頭に立って島の奥を警戒していたルレンティアが声をあげる。

「全員警戒! 何かくるにゃ!」

 ルレンティアが砂浜の中央まで後退し、警戒を促す。
 その段階で、他の四人の耳にも森の奥から騒音が聞こえてきた。
 木々がなぎ倒される騒音と、何かが争っているような激しい擦過音。
 その正体は、すぐに知れた。
 森の奥から砂埃を巻き上げつつ、巨大な何かが飛んで来たからだ。

 複数の脚を持つそれは、テーナルクとバラノの見覚えのある、あの巨大蜘蛛であった。

 ただ、その八本あったはずの脚はいくつかが半ばから千切れており、それだけではなく全身に深い傷が刻まれていた。
 蜘蛛は飛んできた勢いそのまま、砂浜で何度かバウンドした後、水の中へと落下し、大きな水柱をあげる。

「何と戦って……? ――ッ! 伏せるにゃ!」

 ルレンティアがそう叫び、他の三人が反応して地面に伏せる。
 反応しきれなかった聖羅は、近くに立っていたバラノが抱えるようにして、一緒に砂浜に伏せた。
 そんな五人の頭上を、複数かつ極太の雷が走り、浮かび上がりかけていた巨大蜘蛛に殺到した。
 雷は凄まじい轟音を立てて蜘蛛の身体を焼き、一部は水面を走り回って水しぶきをあげ続けた。

 そして――最終的に爆発した。

 巨大蜘蛛の身体が内部から爆散し、破片が周囲に飛び散る。
 ほとんどは水中に沈んだが、脚のうちの一本が、砂浜に伏せていた五人の近くに落ちてきた。
 深々と砂浜に突き刺さったその脚部は焼き焦げており、先ほどの雷にどれほどの威力があったのかは一目瞭然だ。

 そんな雷を放ったと思われる存在が、五人の前に姿を現す。

 それは、巨大な牡鹿であった。
 全身を覆う黄金色に輝く体毛だけでも神々しいが、それ以上に神々しいのは、その頭部に生えた立派な角だった。
 ただでさえ見上げるほど大きな体格なのに、その身体に匹敵するくらい角も大きく、雷を宿し、危険な音を立てて光り輝いている。
 結果として全体から感じる威圧感が倍増していた。
 明らかにただの牡鹿ではないその大鹿は――

 聖羅たちにも、その殺意を向けていた。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第六章 おわり


 ルレンティアは獣人である。
 ゆえに、彼女は動物的な直感に優れており、本能的に物事を判断することに長けていた。

 そんな彼女は、現れたその大鹿を一目見て――勝てない、と悟った。

 フィルカードの王族であるルレンティアは、他の国の王族に比べても、様々なことをひとりで出来るように鍛えられている。
 その様々なことの中には、当然戦闘も含まれており、元々肉体的にも優れた獣人であるルレンティアは、下手な戦闘専門の人間よりも強いのは確かだ。

 だが、その彼女をして、大鹿は明らかに勝てない相手だった。

 その研ぎ澄まされた肉体美にうっかり見惚れてしまいそうになるほど、その大鹿の身体能力は明らかに高かった。
 さらにその内包する膨大な魔力量は、少し距離が離れている状況ですら明瞭に感じるほどだった。
 そんな大鹿の巨大な角に、青白い雷光が灯る。

「――ルレンティア!」

 そう叫んだのは、アーミアだった。
 戦力差を誰よりも正確に理解したがゆえに、大鹿の迫力に飲まれていたルレンティアがその叫び声で正気に戻る。
 彼女は大鹿の行動に反応し、五人の足下に魔方陣を展開していた。
 杖を地面に突き刺し、渾身の魔力を注いでいるのがわかる。
 展開された魔方陣が光り輝き、半透明の白いドーム状の結界が五人を覆った。

 その結界に向け、大鹿の角から迸った雷撃が叩きつけられる。

 雷撃は結界にぶち当たり、轟音が生じた。
 一瞬で結界にヒビが入って、伝播した衝撃が術者を襲い、アーミアがその場に膝を突く。
 杖が激しく震動していた。それを抑え込むようにアーミアは杖を握り続ける。
 その掌から血が噴き出した。

「ぐっ……ッ!」

 アーミアの口から押し殺した呻き声が漏れる。その口の端から血が一筋零れた。
 雷撃の嵐は数秒続き、唐突に止んだ。
 それと同時に、アーミアの張った結界が砕け散る。
 大鹿は鼻息荒く、苛立っているのを隠そうともせず、その場で蹄を地面に叩きつけた。
 角に宿っていた雷光は消えている。

「……ッ、さすがに、無尽蔵ではないよにゃ!」

 ルレンティアはそう分析し、斜め前に向かって駆けだした。
 固まっていては再度雷撃を撃たれた時にその一撃で全滅する。まっすぐ走らなかったのは、少しでも大鹿の意識を散らすためだ。
 同時に、攻撃魔法の詠唱を終えたテーナルクが、掌に宿した火球を大鹿に向けて投げつける。
 火球はうなりを上げて空を駆け、大鹿の胸の辺りに着弾した。
 だがテーナルクは悔しげに呻く。

「だめ、ですわ……!」

 大鹿の体表面を多少焦がした程度だった。
 火球の威力は申し分なかったが、大鹿の身体には常に電撃が流れている。
 火球が大鹿の身体に接する前に、その電撃が走って爆発させられていたのである。
 それは、ルレンティアの機動力を活かした突撃も封じていた。

(下手に近づけば電撃の餌食……にゃら!)

 ルレンティアは渾身の力で掬い上げるように腕を振るい、砂浜の砂を盛大に舞い上げた。
 砂浜の細かい砂粒が大鹿へと襲いかかる。身に纏う電撃が砂粒に反応するが、すべてを撃ち落とせるほど、襲いかかった砂粒は少なくない。
 大鹿は視界を遮られるのを嫌ってか、素早くその場から横っ飛びで逃れた。一瞬で十数メートルは跳び、砂粒がかからない位置まで移動する。
 その隙にルレンティアは森の中に身を潜めようと走った。

 だが、森に入る寸前で思いとどまる。

 ルレンティアの侵入を拒むように、植物の蔦が蠢いているのを見てしまったからだ。
 直感に優れたルレンティアでなければ、気付かずそのまま森の中に入り、蔦に脚を取られていたことだろう。

(くっ……! あの触手型の魔物と違って、植物自体に意思があるようには感じにゃい……ということは……!)

 ルレンティアは砂埃の向こうにいる大鹿を睨む。
 大鹿の眼は、砂埃越しでもルレンティアを見据えるように、爛々と光っていた。
 その様子から核心に至ったルレンティアは、絶望的な気持ちになりながらも、情報を共有する。

「あいつ、植物も操るにゃ!」

「なんですって!?」

 テーナルクが絶望的な顔をして叫ぶ。
 それは無理もないことだった。開けた砂浜で遙か格上の相手と対峙するほど、絶望的なことはない。
 森の中に入ることができれば、死角からの強襲を狙うことも出来るが、身を隠すことの出来ない砂浜ではそれも望めない。
 植物を操るのであれば、森の中に逃げるのは自殺行為だ。
 かといって、水上拠点に乗って逃げようにも、射程外に逃げる前に、巨大蜘蛛のように雷撃をお見舞いされてしまうだろう。

(詰んでるにゃ……!)

 改めて絶望的な状況を実感し、ルレンティアが思考を止めたのは一瞬。
 その一瞬で、大鹿が彼女の目の前まで迫っていた。
 近づかれたことで、大鹿の身に纏う電撃が走り、ルレンティアの身体を硬直させる。
 大鹿の振り上げた前脚の蹄が、逃げられない彼女に振り下ろされようとしていた。

(しまっ――)

 死を悟ったルレンティアの眼に、大鹿の振り下ろす蹄がスローモーションに映る。
 その彼女の身体を、真横から飛んできた空気の塊が突き飛ばす。わずかに位置がずれたことにより、大鹿の振り下ろした蹄は外れ、砂浜に巨大なクレーターを作りながら衝撃波を周囲にまき散らした。
 ルレンティアはそれに巻きこまれ、きりもみ状態で吹き飛んだが、負傷度合いは軽い。

 見れば、バラノが肩で息をしながら、手を翳していた。

 バラノは戦闘員ではなく、魔法も得意な方であるとは言いがたい。しかし使えないわけではない。
 彼女が翳した手には小さな魔石があり、それが砕け散っていた。
 彼女自身の魔法は弱いものだが、魔石の力を使って増幅させ、ルレンティアを突き飛ばすほどの威力にしたのだ。
 万が一の切り札として、バラノが密かに持っていたものだ。
 素の対応力に劣る彼女が、そういった仕込みをするのは当然である。

(助かったにゃ! ――けど!)

 ルレンティアの命は助かったが、大鹿に影響を与えられたわけではない。
 大鹿は砂浜に埋まった蹄をこともなげに抜き、ぐるりと身体を反転させてバラノたちのいる方向を見る。
 その四肢に力が籠もり、バラノもろとも蹴散らそうとしているのがわかった。

「まずい……っ! こっちだにゃ!」

 咄嗟にルレンティアは魔法を用いて、拳大の石を生成し、いくつか大鹿に向けて放った。
 だが、相手をするに値しないと判断されたのか、大鹿が身体に纏う電撃が自動的にそれらを迎撃し、大鹿自体はバラノたちの方へ向いたままだ。
 同様に少し移動していたテーナルクも攻撃魔法を放つが、自動迎撃されて大鹿の気すら引けなかった。
 止められない、とふたりが思うのと、ほぼ同時に。

「鹿さん! 待ってください!」

 聖羅がバラノよりも前に出ながら、彼女を庇うように両手を広げ、そう声を張り上げた。抱えていたリューは先ほどまで立っていた場所に降ろしている。
 彼女は神々の加護が宿ったバスタオル一枚で、絶対防御の効果こそあるが、攻撃手段はない。
 ゆえに声をかけることしか出来ないのだ。
 そして大鹿は、そんな彼女の呼びかけを聞き――

 一瞬で距離を詰め、その身体に向けて前脚の蹄を振り下ろした。

 蹄は聖羅の後頭部を抑え、そのまま真下に降ろされたため、聖羅は上半身を砂浜に埋めることになった。
 容赦のない一撃であり、普通の人間ならば熟れた果実の如く頭の中身をぶちまけていたところだ。
 加護を持つ聖羅ゆえに、頭が潰れることはなく、負傷することもなかった。
 ただ、彼女自身はただの人間であるため、上半身が砂浜に埋められ、呼吸が出来なくなったために下半身をばたつかせて暴れる。

 あられもない姿ではあるが、そんなことを気にしている余裕は、本人にも他の四人にもなかった。

 一方、大鹿は大鹿で、潰すつもりで蹄を叩きつけたにも関わらず、聖羅が潰れていないのに戸惑っているようだった。
 再度蹄を振り上げるべきか、そのまま砂の中に埋めてしまうか考えているようだ。

 その巨体が、横薙ぎに吹き飛ばされる。

 一瞬で距離を詰めたリューが尾で大鹿を吹き飛ばしたのだ。大鹿はもんどり打って砂浜に倒れ込み、水柱ならぬ砂柱を立てる。
 リューは小さな身体からは想像できないほど、激しい威嚇の咆哮をあげて大鹿に追撃を行う。
 口内が黒い光に溢れ、即死のブレスが大鹿へと放たれた。

 だが大鹿もさるもの。

 即座に体勢を立て直し、砂浜を蹴ってブレスの範囲外へと逃れる。
 大鹿が後退しながら角を振ると、雷光が丸まって出来たような球体がいくつも中空に発生し、その球体からトゲが伸びるように雷撃が発生した。
 襲いかかる雷撃を、リューは紙一重で避け、大鹿へと再度ブレスを放った。
 大鹿は胴体と同じくらい大きな角を用いて、砂浜の砂をひっくり返すように巻き上げる。ブレスは巻きあげられた砂を物ともせず貫いたが、その先に大鹿はいなかった。
 一瞬、相手を見失ったリューが視線を巡らせる。

 そのリューの頭上から、大鹿は降ってきた。

 巻きあげた砂に紛れて跳んだのだ。
 巨体であることを逆手に取った、意識の外からの攻撃。
 直前で気付いたリューが、振り下ろされた大鹿の蹄を角で受けとめる。
 轟音が周囲に響き渡り、衝撃派が砂を押しのけながら、二頭を中心に広がった。
 怪物同士の戦い。人が巻きこまれればただではすまない攻防の嵐の中、テーナルクが砂に埋もれた聖羅を救出する。

「セイラさん! しっかりですの!」

 砂に埋もれて呼吸が出来ていなかった聖羅は、激しく咳き込み、口の中に入った砂を吐き出した。

「げほっ、げほっ! な、なんとか大丈夫です……」

 テーナルクが聖羅に手を貸し、立ち上がらせている間も、戦いは続いていた。
 広範囲に広げられた雷雲が渦巻き、そこから無作為に雷撃が落ちて砂浜の至るところにクレーターを生じさせる。リューのブレス並みの広範囲攻撃だった。
 聖羅はそのうちの一本が、自分たちの頭上で渦巻いているのを見てしまう。

(まずい……! 私はともかく、テーナルクさんが!)

 聖羅は咄嗟に、テーナルクの腕を引き、胸に抱き締めるようにして彼女を庇った。
 守らなければと感じたがゆえの、咄嗟の行動。
 その聖羅の背に、雷が直撃した。
 衝撃が彼女の身体を通じて足下に抜け、ふたりの立っていた場所の砂を舞い上げる。

「せいらん! てーなるん!」

 青ざめたルレンティアが悲鳴をあげる間にも、大鹿とリューの激闘は続く。
 リューが大鹿の胸元に蹴りを入れ、大きく吹き飛ばす。そこに追撃のブレスを吐いた。
 大鹿はそれを素早く後退することで回避する。
 本来のリューの体格であれば回避が難しいほどに極太なブレスとなるのだが、現状のリューの体格では十分回避可能なブレスしか放てないのだ。

 だが、それでも即死範囲攻撃が連発可能という事実は変わらない。

 連続でブレスを放ち、徐々に大鹿の逃げ道を塞いでいく。
 いよいよブレスが大鹿を捉える、というところで、溜まらず大鹿が森の中へと退いた。
 木々という遮蔽物が多い場所ならばさらに回避の目はあがるのだから、判断は間違っていない。
 それでもリューのブレスならば、木程度の遮蔽物など関係なく穿つことが出来ただろう。

 だが、リューはブレスを撃たなかった。

 大鹿はこれ幸いとばかりに森の奥へと逃れていく。
 もう少しで大鹿を仕留められるところだったはずのリューは悔しげに唸り、ゆっくりとその場に降りて蹲る。
 今のリューにとって、大鹿はかなりの強敵であったようだ。かなりの体力を消耗してしまったらしい。
 ともあれ、大鹿の脅威は一端去った。
 ルレンティアは電撃を喰らって痺れの残る身体を奮い立たせ、現状を見渡す。

「みんな、生きてるよにゃ……?」

 最初にその呼びかけに答えたのは、バラノだ。
 地面に伏せ、砂を被ってしまったらしく、砂まみれになった頭を払いながら立ち上がる。

「こちらはなんとか……ルレンティア様、先ほどは乱暴に申し訳ありませんでした」

 咄嗟に風の魔法で突き飛ばしたことに対する謝罪だと理解したルレンティアは、軽く手を振って答える。

「気にしないでいいにゃ。あれがなかったら死んでたしにゃ」

 緊急回避というには乱暴だったが、魔法の扱いに長けているわけでもないバラノの精一杯だったのはルレンティアもよくわかっている。
 次に動いたのは、杖を抱えて蹲っていたアーミアだった。

「わたしは、少し、きつい……」

 一撃目の極大雷撃を結界で防いだアーミアは、その代償に体内器官にダメージを負っていた。
 その献身がなければ、聖羅とリュー以外は全滅していたかもしれず、またリューにも多少のダメージが入って大鹿を撤退させられなかったかもしれない。
 ある意味最大の功労者な彼女に、文句のある者がいようはずもない。

「命があればいいにゃ。問題は……」

 ルレンティアは急いで聖羅とテーナルクの元に駆け寄る。
 聖羅が庇ったとはいえ、大鹿の雷撃をまともに受けたのだ。絶対防御の加護がある聖羅と違い、テーナルクは致命傷の可能性がある。
 テーナルクを抱きかかえた聖羅は、近づいてきたルレンティアに潤んだ目を向けた。

「ルレンティア、さん……! テーナルク、さんが……っ」

 ルレンティアは聖羅の傍にしゃがみ、テーナルクの様子を見る。テーナルクは眠っているように目を閉じている。
 ルレンティアが最悪の覚悟をして触れようとすると、その目が少し開かれた。

「てーなるん!」

「テーナルクさん!」

「だい、じょうぶ、ですわ……しびれて……うごけ、ませんけども……」

 ひとまず生きて喋れる程度ではあることがわかり、聖羅とルレンティアはほっと胸をなで下ろす。

「喋れるなら、ひとまずは安心にゃ……せいらん、こっちは任せて欲しいにゃ」

 ルレンティアはそういって、聖羅からテーナルクを預かる。
 聖羅はその意味をすぐに理解し、立ち上がった。その足下は少しおぼつかなかったが、すぐに安定する。
 そして、地面に降りて蹲っているリューの元へと急いだ。
 リューは聖羅が近づいてきたことを感じ取ったのか、首だけを持ち上げて、聖羅の方へ顔を向ける。

「くるる……」

「リューさん、皆さんを助けてくださってありがとうございます」

 力無く鳴くリューを、聖羅は抱え上げて抱きしめる。
 リューが戦ったのは聖羅を助けるためであり、他の面子を助けようとしたわけではないのだろう。
 だが、結果として全員が助かったことは事実であり、聖羅はその思いをそのまま言葉にした。
 リューは内容よりも聖羅に褒められたことが嬉しいのか、聖羅の首筋に擦り寄る。
 聖羅はこのときばかりはリューの好きなようにさせた。
 そんな聖羅とリューの様子を窺いつつ、バラノは状況を見定めていた。

「これは……大変厳しい状況ですね」

 聖羅とバラノにはほとんどダメージはない。だが、この二人は率先して前線を張れる能力を持たない。
 防御の要であるアーミアは、結界を強引に突破されたことによる反動で体内外にダメージを負っており、回復に時間を有する。
 攻撃と探索を引き受けられるルレンティアは比較的軽傷だが、ダメージがないわけではない。電撃によって受けた体の痺れは、彼女の最大の長所である機動力を削いでいる。
 魔法を扱いこなし、補助に長けたテーナルクは雷の直撃を受け、一番深刻な状態だ。聖羅が庇ったことで即死こそ免れたが、しばらくは動くこともできないだろう。
 そして最大の戦力である死告龍・リュー。大鹿を退けるほどの力を持つが、激戦による消耗が激しい。再度大鹿が襲撃してきた際には、凌げるかも怪しい。
 大鹿も無傷ではなく、その回復には時間がかかるだろうが、敵が大鹿だけではない可能性もあり、楽観は出来ない。

 極めて危険な状況に、彼女たちは立たされていた。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第七章 1


 それは――真正面から正々堂々と現れた。

 深い深い森の中。
 生い茂る梢によって、本来頭上から差し込むべき光は遮られ、昼間でも鬱蒼としている。
 そんな森の中を、茂みに密かに隠れることもせず、木々を素早く伝うわけでもなく。
 まるでそれが当然のように堂々と。
 森の中に歩むべき道があると言わんばかりの、力強い足取りで前へと進んでくる。

 その異様な光景に、違和感を覚えなかったかと言えば否だろう。

 それが森の中にいること自体がおかしなことなのに、それ以上にその態度は奇妙だった。
 ほんの一時間前、為す術もなく己に押し潰されていた存在と同一個体だとは思えない。
 それの前に立ちはだかりながら――大鹿は違和感を押し殺し、それを観察する。
 現れた大鹿の姿を見て、一枚の白い布を胴体に巻いただけの姿をした人間の女性は、一瞬身体を竦ませ、しかしすぐに背筋を伸ばして彼と対峙した。

 彼女――清澄聖羅の瞳が、確かな意思を持って大鹿を見据える。

 大鹿は聖羅から圧のようなものは一切感じていなかった。
 神々の加護を得ているゆえに、どれほどの魔力を有しているかも感知できない。そういう意味での異様さはあったが、脅威に感じることなど何もない。
 一時間前と同様、地面に叩きつければそれで終わる。
 ゆえに、大鹿は即座に動いた。聖羅が瞬きするほどの間に、蹄が届く位置まで移動し、前脚を振り上げる。
 その段階に至っても、聖羅は反応できていなかった。

 だから、大鹿は彼女が囮であると確信していた。

 森の中で大鹿の知覚能力は森を通じて広がっている。
 例え隠蔽の魔法を使おうと、攻撃のために動けば大鹿には必ずわかるはずだった。
 聖羅を攻撃する隙を狙って、仲間の人間達や死告龍が必ず攻撃してくるはずだと、彼は読んでいた。
 ゆえに、聖羅に向けて蹄を振りかぶりながらも、周囲の警戒は一切怠っていなかった。
 一切の油断なく、いつでも回避行動を取れるように備えていた大鹿。

 だが、蹄を振り下ろし始めても、周囲から敵が跳びだしてくることはなかった。

 反射魔法によって引き延ばされた思考の中で、大鹿は考える。
 どうして他の者が出てこないのか。聖羅は本当に囮なのか。
 何か見落としていることはないか。
 考え、考え、ひたすら考えても答えは出ない。
 森を通じて広がっている感覚に引っかかるものは、依然ない。
 ならば、大鹿が行うことはただひとつ。
 まずは目の前の聖羅を地面に叩き伏せ、埋めて完全に無力化してしまうこと。
 それはとても容易いこと――のはずだった。

 大鹿はとてつもなく重い反発を前脚に受け、思わず仰け反った。

 一時間前と同じく、聖羅の頭部を狙った大鹿の一撃。
 先ほどはその勢いのまま聖羅を砂に埋めることに成功したのが、今回は逆に大鹿の方が凄まじい衝撃を受けて吹き飛ばされそうになった。
 周囲の警戒に幾分かの意識を割いていて、全力でなかったことが功を奏した。
 もし本気で聖羅を殺そうと蹄を振るっていたら、その反発によって大鹿の前脚はへし折れていたことだろう。
 大鹿は接近した時と同様、目にもとまらぬ早さで後退する。
 今度こそ周囲から聖羅の仲間が攻撃してくると思ったためだ。

 しかし、相変わらず周囲から敵が接近してくる様子はない。

 いまの接触の瞬間、大鹿には確かな隙が生まれていた。
 あっさり倒せると思っていた相手からの思い掛けない反撃を受け、いかに大鹿といえど、驚愕に心が染まった。
 もし攻撃を仕掛けるのであれば、千載一遇の好機だったはずである。
 だが現実には攻撃を仕掛けてくる者はおらず、どういう理屈か大鹿の攻撃を防いでみせた聖羅自身も、攻撃を仕掛けて来る様子はない。
 ただ、その場に立ち続けている。否、その口が動いた。

「鹿さん。私の話を聞いていただけませんか?」

 恐怖がないわけではないはずだ。
 大鹿の巨躯は人の身には小山のように見えているはずで、それが友好的ならともかく、相手の命を奪わんと敵意と殺意を撒き散らしている。
 神々の加護があったとしても、本能的な恐怖というものは変わらない。
 それでも、微かに震えていながらも、聖羅はまっすぐに大鹿の瞳を見ていた。
 彼女の瞳には、自分の役割を果たそうとする決意があった。
 そしてそんな瞳を、大鹿はよく知っていた。

 それは――己の瞳と同じだったから。




――少し時間は遡る。

 大鹿の襲撃を受けた五人と一頭。
 激戦を繰り広げたものの、死者は出ずに済んでいた。だが、無傷で退けられたわけでもなく、五人と一頭は大きな損害を被っていた。
 テーナルク、ルレンティア、アーミア、そして死告龍・リュ-。
 戦闘でも平時でも頼れる三人と一頭が負傷、もしくは消耗し、頼れなくなった時、それによってかえって聖羅の覚悟は固まった。
 砂浜に乗り上げた水上拠点の建物の中で、負傷度合いの高いテーナルクとアーミアは横になり、彼女たちの世話をバラノが焼いていた。
 感知能力の高いルレンティアは、痛む身体をおして入り口脇に見張りとして座り込み、そのルレンティアの傍に、消耗して蹲るリューを抱えた聖羅が座っている。

「……いまのところ静かだけど、いつまた来るかわからないにゃ」

 砂浜の向こうに広がる森を見ながら、ルレンティアが呟く。
 その口から小さな息が零れた。傍に座っていた聖羅にしか聞こえない吐息だったが、そこに疲弊感が籠もっていることを感じた聖羅が、心配そうに声をかける。

「ルレンティアさん、休まなくても大丈夫ですか?」

 その質問に対し、ルレンティアは苦笑で応じた。

「正直辛いけどにゃ。ボクは普通の人間よりは丈夫だから平気だにゃ。……せいらんのほうこそ大丈夫なのかにゃ?」

「……私は大丈夫です」

 絶対防御の神々の加護を持つのだから、それは当然のことだった。
 だが、ルレンティアは皮肉気味に笑う。

「にゃはは、なるほどにゃ。せいらんは嘘が吐けるのに嘘が下手なんだにゃ」

「…………」

「さっき雷撃を受けたあと、少し足下がおぼつかなくなってたよにゃ? 完全に防げていたなら、そんなことはないはずにゃ」

「…………はい、そうですね」

 誤魔化せないと判断したのだろう。
 聖羅は素直に認めた。

「でも不思議だにゃ。死告龍様のブレスも防ぐ神々の加護を、あの雷撃程度が貫通したということになるにゃ」

 程度とはいうものの、魔法で防御を固めたテーナルクを瀕死に追い込むほどの威力であり、侮れるものではない。
 あの雷撃程度、というのは単に死告龍のブレスとの比較での話である。
 そのことは聖羅も同意なのか、自分の手を見つめた。

「そう、ですね……魔法や加護の原理を知らない上での推測ですが……テーナルクさんを守ろうとしたから、ではないかと」

 聖羅の推測を聞き、ルレンティアはなるほど、と手を打った。

「てーなるんの負傷度合いが比較的軽くて良かったと思っていたけど、そういうことだったなら納得にゃ。着用者の意思に従って、てーなるんにも少しだけ加護がもたらされたのかもにゃ。ただ……」

 ルレンティアは言うべきか少し迷った後、結局言うことにしたようで、口を開いた。

「あまりそれは使わない方がいいにゃ。特にせいらんは魔法でさえ扱う経験がないにゃ。加減を間違ってしまったら……」

「……そうですね」

 ルレンティアは最後まで言わなかったものの、その結論は聖羅にもわかっていた。
 今回は多少身体が痺れる程度で済んだが、もっと聖羅本人の防御が緩んでいたら。
 魔法に抵抗力を持たない聖羅は、死んでいてもおかしくはなかった。

「神々の加護についてはボクたちにもわかっていないことが多いけど……ある程度の制御が利くというのは知らなかったにゃ。せいらんも無自覚だったんだよにゃ?」

「はい。リューさんやヨウさん……私を守護してくださっている大妖精さんと、このバスタオルの加護がどういうものか、色々と試してはいたんですが……他者に付与できるかということに関しては全く想定もしていませんでした」

「なるほどにゃあ…………その辺は、軍事国家のザズグドズ帝国さんなら、もっと細かく検証しているんじゃないかにゃ?」

 そう揶揄するようにルレンティアが言うと、負傷したふたりの世話を焼きつつも聞き耳を立てていたらしいバラノがふたりの元にやってきた。

「そうですね。我が国にも神々の加護を宿した武具や防具はいくつかありますから。検証していないわけがありません」

「その辺、話せることはせいらんに話しておいてあげた方がいいんじゃないかにゃ?」

 自分は聴かなくてもいい、ということを示すように、ルレンティアは頭の上の猫耳をぺたんと寝かせる。
 そんなルレンティアの気遣いに対し、テーナルクは淡々とその場で話を続けることで応えた。

「残念ですが、セイラさんが持つバスタオルほどの加護を宿した装備は我が国にはありません。ゆえに参考にはならないと思います。ただ……平時の実験と、戦時の実践では加護の効果がまるで違うという事実はあります」

「それはやっぱり、神々の加護には着用者の意思が関わっているということかにゃ?」

「間違いなく関わっているでしょうね。そうでなければ、説明がつかないことが多いですから。ただ、他者に加護を移せるかについては、不明です。参考になりそうな実験としては、両手に剣を持ち、加護を持たない方の剣に、もう片方の剣の加護が乗るかというものがありますが……」

「どうなったんですか?」

「そもそも、両手に剣を持った時点で加護が弱まってしまったのです。もちろん、もう片方の剣に加護が乗ることはありませんでした。二刀流の剣士が持てば加護の減少は抑えられたようですが、加護を別の剣で振るうことはやはりできなかったのだとか」

「その話だけでも、神々の加護に使用者の意思が反映されるっていうのは間違いじゃなさそうだにゃ」

「ただ、武器と防具という違いは大きいですからね。防具に関してはアーミア様の方がお詳しいのでは?」

 バラノが水を向けると、話を聞いていたらしいアーミアが身体を起こして応じる。

「緊急事態だから喚びだしたけど、本来この『神聖法衣』は儀式用のもの。戦闘に使われることはほぼなかったし、実験もほとんどされていない」

「そうなんですか? 服を喚びだして着替えるのに慣れていらっしゃったようですが……てっきり、そういった練習をされているのかと思っていました」

 聖羅は何気なくそう呟いた。
 最初に迷い込んだ森の中で、巨大な花型の魔物に掴まりそうになった際、アーミアは『神聖法衣』を呼び出すと同時に、元々着ていた服を脱ぎ捨てていた。
 それは実に素早い着替えであり、何度もそういったことをしていた経験があったのだろうと聖羅は考えていたのだ。
 聖羅の指摘を受け、アーミアはなんとも形容しがたい微妙な表情をする。

「……それはまた別の理由」

 彼女が服を呼びだして即座に着替える、という動作に慣れている理由は、守護亀グランドジーグと対話する儀式の後、狙ったかのように毎度現れるヘルゼンという青年神官のせいである。
 『神聖法衣』はその性質上、下着の上から半透明の衣服を身につけているのと変わらず、年頃の女性であるアーミアはそれを身に付けた姿を異性に見られることに羞恥心を覚える。ゆえに、素早く服を着替えるという技術を体得する必要があった。
 ただ、そのことを説明するのは身内の恥を広めるようなものだ。
 そのため、アーミアは言いたくないという気持ちを言外に乗せて、言葉を濁して応えた。
 しかしアーミアはふと、何度忠告しても儀式の後に現れることをやめないヘルゼンが、本当に考え無しでそうしていたのかを疑問に感じた。

(まさかヘルゼンは……こういう状況を案じて……? いえ、まさか……ね)

 異界に飲まれた直後、触手型の魔物に不意を突かれた時、アーミアは無防備な状態で身体を締め上げられ、危うく死にかけた。
 そのことからもわかるように、例え『神聖法衣』という切り札を持っていたとしても、喚びだしてすぐ着替えることができなければ、その防御力は発揮されない。
 実際早着替えに慣れていなかったら、巨大花の魔物に襲われた際、『神聖法衣』を身に付けるのは間に合っていなかった。
 ヘルゼンが何度も叱ってもやって来ていた理由は、そういった有事の際のことを考えていたためかもしれない。
 さすがに考えすぎかとアーミアは首を振っておかしな考えを振り払った。

「ともあれ、神々の加護はとても強力ですが不確定要素も多いものですから……それを軸に作戦は考えられませんね」

 話を総括して、戦略家としてバラノはそう告げる。
 それは妥当な結論であり、ルレンティアやアーミアはそれに同意する。
 だが、それに異を唱える者がいた。

「いいえ、バラノさん。私からひとつ、提案があります」

 神々の加護を宿すバスタオルを身に付けただけの存在――清澄聖羅。
 彼女は意外そうに自分を見る三人の視線を感じつつ、端的に自分の考えを告げた。

「私独りで、あの鹿さんと話をして来ようと思います」

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第七章 2


 清澄聖羅は大鹿と対峙していた。
 大鹿からはいまだ殺意と敵意が滲み出ており、それと相対している聖羅は、緊張でごくりと生唾を飲み込んだ。
 頬を冷たい汗が流れていく。

(あ、危なかったです……!)

 聖羅は内心、そう呟いていた。
 彼女にはバスタオルの加護という絶対防御がある。
 その加護は彼女の意思に従って、その効果を増減することがわかっていた。
 ゆえに、攻撃に怯みさえしなければ、例え大鹿が全力を込めた一撃を振るおうと、その一撃を完全に防ぎ、それによって吹き飛ばされたり、地面に埋め込まれたりしなくなるのだ。

(ルーさんと簡単な実験をして、おそらく大丈夫なのはわかってはいましたが……やはり、実践は怖いです)

 聖羅は数十分前のことを思い返す。
 大鹿と一対一で対話すると提案した時のことを。




 聖羅が独りで大鹿との対話に望むと宣言した時、最初に声をあげたのはバラノだった。
 戦略家にして策略家たる彼女は、反対の意思を表明する。

「それは無謀すぎると考えます。……確かに現状を鑑みると、犠牲者を出さずに済む道はそう多くありません。あの鹿との交渉が成る道としては……攻撃されても生き残れるセイラさんが単独で交渉を行うことが理に適っています」

 しかし、とバラノは首を横に振る。
 観察と分析を得意とするバラノは、その方針の成功率の低さも導き出していた。

「先ほどの戦闘でセイラさんは鹿の一撃によって砂に埋められてしまっていました。もし助けがない状態でああなった場合、セイラさんは窒息して死んでしまいます。その対策は取れますか?」

 絶対防御の神々の加護があったとしても、聖羅自身は魔法が使えない普通の人間だ。
 先ほどの戦闘で起きたことを考えれば、単独で大鹿に対峙することは危険だった。
 もちろん、それは聖羅もわかっていてその対策を考えていた。

「たぶんですけど……大丈夫だと思います。ルーさん。私の手を軽く叩いてみていただけますか?」

 そう言ってルレンティアに向けて手を差し出す。
 ルレンティアは怪訝そうな顔をしながらも、その差し出された聖羅の手に向けて、自分の手を振り下ろした。
 バシッ、という鋭い音がして、ルレンティアの掌が聖羅の掌と重なる。
 聖羅の手は、微塵も動いていなかった。いくらルレンティアが加減していたとはいえ、勢いからすると聖羅の手を多少なりとも動かしておかしくなかったが、全く動かなかった。
 むしろ、ルレンティア側が驚いたように手を引く。

「なんだか、すごく硬い感触だったにゃ。まるで地面が何かを叩いたような……」

「大丈夫、そうですね」

 ルレンティアの反応を見て、聖羅は満足げに頷く。

「一体どういうことですか? 説明していただけますか、セイラさん」

 説明を求めるバラノに対し、聖羅は「はっきりとわかっているわけではないのですが」と前置きをしてから言った。

「着用者の意思によって加護が増減するという話を聴いて、『攻撃を完全に受けきる』ことが出来るかもしれない、と思ったんです」

 絶対防御と呼んではいるものの、聖羅もバスタオルの加護がどういったものか完全に理解できているわけではない。
 少なくとも死告龍の『即死』の効果を無効化出来る程度には、何らかの力を打ち消すことが出来るということは確かだった。
 死告龍の『即死』効果は、普通は防ぎようのない力であり、打ち消すには神々の加護がいるほどの特殊な力だ。
 それなら、腕力のような、誰にでも振るえる普通の力程度なら、完全に防げるのは道理だった。

「完全に力を無効化出来るのであれば――吹き飛ばされることもないはずです」

「しかし……それでもやはり危険です。あなた自身を吹き飛ばさなくても、地面自体を掘り下げ、巻きあげた土でセイラさんを埋めたり、植物を操って絡みつかせ、行動出来なくするようにすることは出来るはずです」

「でもおそらく、最初は先ほどのように蹄で攻撃してくると思うんです。それさえ防げれば、呼びかける時間くらいはあると思います。そこでお聞きしておきたいんですが……」

 聖羅は確認しておかなければならないことを聴く。

「あの鹿さんは……喋っていましたか?」

 そもそも言葉を解さない相手には、交渉もなにもない。
 聖羅は大鹿の目に理性の輝きを見たが、それが正しいかどうかは、他の四人に聴かなければわからないことだった。
 その質問に答えていいものか、四人は悩んでいたが、嘘を吐くことの出来ない彼女らは観念したように応える。

「ちゃんとした言葉を聞いたわけじゃにゃいけど、言葉を理解してる感じではあったにゃ」

「そう、ですね。死告龍様を死告龍様だと認識していたようで、明らかに」

「怒りが強くてわかりにくかったけど……あれは理性ある者。本能に従って暴れるだけの知性のない魔物とは違う」

 彼女たちの言葉を受け、聖羅は安堵する。
 もし大鹿が全く会話の通じない相手であれば、聖羅独りで交渉にいくのはそもそも無意味となるからだ。

「でしたら、やはり私が独りで交渉してみるべきです」

「せいらんはなんで交渉できると思うにゃ? その根拠が聴きたいにゃ」

 ルレンティアの疑問は四人の総意でもあるようで、興味深そうにその答えを待っていた。
 聖羅はその疑問を当然のものとして受け、交渉が出来ると考える最大の理由を答える。

「あの鹿さんなのですが……一度、お目にかかったことがあるんです。本当に、一瞬だけでしたけど」

 聖羅は思い返す。
 それは、リューと共にヨウの大森林に行った時のこと。
 森を離れる時、聖羅はヨウ以外の、森に残った大妖精ふたりの傍に、森の住民らしき様々な魔物が現れるのを見た。
 彼らは恐らく、大妖精の眷族たち。
 その中にあの大鹿もいたのである。

「あの鹿さんは――おそらく、ヨウさんの眷族です」

 あの広い大森林を支配下に置く大妖精たちが、最も傍においていたくらいなのだから、相応の実力者であろうことは想像に難くない。
 下手な戦力は余計な刺激にしかならず、そして唯一対抗できそうな死告龍は、もっとも敵視されているのも道理だ。
 魔界の主とその眷族たちとの関係は、その魔物次第ではあるようだが、大妖精たちの眷族は彼女たちを慕っていたようだから。
 だが、ヨウの眷族だということは、その性質を多少ならずとも受け継いでいるということである。

「ヨウさんの眷族であれば……話をしようとする私の言葉を完全に無視することはできないはずです」

「それは……そうかもしれませんが」

「せいらんひとりで行かせるのは心配だにゃ」

「鹿さんを刺激しないためには仕方ありません。そういうわけですので……」

 聖羅は腕に抱いたリューの様子を窺う。
 リューは閉じていた目をパチリと開け、聖羅を見上げていた。
 聖羅はそんなリューをいったん腕から下ろし、真正面から見つめ合う。

「リューさん。私がいない間、皆さんを守っていてくださいませんか?」

 果たして、いまの状態のリューにそういった交渉が通じるのか、賭けではあったが、聖羅はただ誠意を持ってリューにお願いする。
 結果として、その誠意は通じたようだった。

「くるる……」

 大変不満そうな顔をして、聖羅の腕に擦り寄る。
 その様子に内心申し訳ない気持ちになりつつ、聖羅はリューの身体を優しく撫でる。

「お願いします、リューさん。襲いかかってくる敵は鹿さんだけとは限りません。いまの皆さんを守れるのは、リューさんしかいませんから……」

 再度聖羅がお願いすると、リューはやはり不満そうに啼きながらも、渋々と言った様子で頷き、半身を起こしていたアーミアの傍にいくと、その膝の上に飛び乗る。
 アーミアは驚いたが、伊達に普段から最大級の魔物と触れあっているわけではないのか、落ちついた様子でその行動を受けとめていた。
 種族的に魔力などに敏感で、死告龍を恐れがちなルレンティアはほっとした様子で胸を撫で下ろしていた。
 同じように膝の上に乗って来られでもしたら、何も出来なくなっていただろう。

(リューさんも本能的なものかもしれませんが……なんとなく恐れられているのは理解しているのでしょうか)

 ともあれ、リューにこの場の守護を任せることが出来るとなれば、あとは聖羅が大鹿との交渉を成功に導けるかどうかが問題だ。
 聖羅は交渉術に長けているわけではないが、それでも己にしかできない役割を持ち、その決心は定まっていた。
 善は急げ、とばかりに立ち上がる聖羅。
 実際、大鹿が消耗しているうちに行く方が、交渉の成功率は高いと聖羅は踏んでいた。余力があると、聖羅に攻撃を仕掛ける選択肢が増えてしまうからだ。

「それでは……行ってきます」

 こうして、聖羅は単独で大鹿との交渉に挑んだのだった。




 聖羅の考えは見事的中し、大鹿の初撃を防ぐことに成功し、大鹿に呼びかけるところまではたどり着くことができた。

(問題はここから……)

 聖羅は改めて深呼吸を行って気持ちを落ち着け、睨んでくる大鹿の目を見つめ返す。
 大鹿は聖羅の出方を窺っているようだ。続けざまに攻撃を仕掛けてこないのは、聖羅に攻撃が通じないとわかっているからだろうか。
 聖羅はそんな大鹿に向け、言葉をかける。

「鹿さん。私の話を聞いていただけませんか? ……聴いていただけるのであれば、首を上下に動かして、頷いていただけますか」

 聖羅のバスタオルは、魔力を用いた干渉を完全に無効化してしまう。
 ゆえに、大鹿が喋っていたとしても聖羅の耳には届かない。
 動作で意思を示して欲しいという聖羅の求めに対し、大鹿はしばらく動かなかった。
 言葉が通じていない可能性もあったが、おそらくそれはないと聖羅は信じていた。

(翻訳魔法を改良したのはヨウさんですし、他の大妖精さんたちとは知識や記憶を共有しているという話でした……なら、この鹿さんにも、その魔法は伝わっているはずです)

 聖羅について森から出てきたのは特殊な例だが、大妖精が外界に出る基本的な理由は、森の中に籠もっているだけでは得られない、新しい知識や経験を蓄積するためだという。
 そういった習性のある彼女たちならば、当然、改良した魔法を知識として蓄積しているはずだった。
 いまのところ、その魔法が活きるのは聖羅を相手にするときだけだが、今後もしも聖羅のような存在が増えるとすれば、その知識が存分に活かされることになる。
 可能性は高いと考えられたが、伝達されているかは賭けだった。

 幸いにして、大鹿は聖羅の言葉を理解しているようで、その首を上下に動かした。

 聖羅はほっと息を吐きつつ、さらに言葉を続ける。

「いまの状態だと、私はあなたの言葉を聴くことができません。聞こえるようにしますから、攻撃しないでくださいね?」

 そう告げると、聖羅は身体に巻いていたバスタオルを腰まで下げた。
 露わになる胸を左腕で隠しながら、聖羅は四人の内の誰かから胸を覆うための布を借りてこなかったことを後悔する。

(相手が鹿さんで良かったです……イージェルドさんやオルフィルドさんのように人間の男性だったら、恥ずかしくて仕方ないところでした)

 そんなことを思いつつ、トップレスの姿になった聖羅。
 改めて大鹿に向けて口を開こうとしたところ、大鹿が先に口を開いた。

『それだけで、言葉が通じるようになったのでござるか?』

 なぜか、語尾がござるだった。
 思わず笑ってしまいそうになった聖羅だったが、翻訳魔法の効果でそう聞こえているだけなのだということを思い出す。
 ルレンティアの語尾が「にゃ」であるのも同じ原理であり、あくまで聖羅の認識上それが相応しいとされているにすぎない。
 この大鹿の語尾も、聖羅の感覚的に照らし合わせ、それがもっとも適切な訳であるというだけなのだ。相手がそういった古めかしい言い方をしているのかもしれないが。
 ごほん、と聖羅は咳払いをし、笑いを誤魔化す。

「はい。このバスタオルはこの形で身に付けることで、加護の強弱を変えることが出来るんです。いままでは弾いてしまっていたあなたの声もちゃんと聞こえます」

 その聖羅の言葉に、大鹿はフン、と鼻息を荒くする。
 そして、瞬く間に聖羅との距離を詰めた。
 巨大な大鹿の体躯は小山のようで、聖羅は象に目の前に立ち塞がれたかのように感じた。

『ならば――攻撃も通るということでござろう?』

 蹄を振り上げる大鹿。
 その蹄は聖羅の胸板ほどはあり、聖羅など一撃で踏みつぶすことが出来るのだと暗に示していた。
 大鹿が蹄を振り上げたことで、ただでさえ巨大な大鹿の体躯はさらに巨大に見え、気の弱い人間であればその場から逃げ出して誰も責められないほどの威圧感を醸し出している。
 だが、聖羅は怯まず、大鹿の目をじっと見つめていた。

「話を聞いてくださるのでしょう?」

『……怯みもせんとは。ただのひ弱な人間の小娘かと思えば、とんだ変わり者でござったか』

 面白くなさそうに、大鹿はその蹄を下ろす。
 元々本気で攻撃する気はなかったのだ。
 もし大鹿が本気で攻撃するのであれば、聖羅は反応すら出来ないのだから、聖羅には大鹿が攻撃をしないことがわかっていた。
 目の前で蹄を振り上げた、ということを聖羅が認識出来る時点で、大鹿は本気ではないのだから。

「私は弱いですから。逆に開き直れるんです」

『それが出来るのが、変わり者の証でござるよ』

 大きな溜息をついた大鹿は、『それで?』と聖羅を促す。
 四肢を折り畳んでその場に体を横たえ、話を聞くつもりがあると言うことを、その態度で示していた。

『拙者と話をしたいとのことでござったが?』

 促され、聖羅は目的を果たすべく口を開いた。
 何を言うかは、決まっているのだ。

「ヨウさん……あなたの主である大妖精さんに会いたいんです」

『会って、なんとする? 我が主を利用するのでござるか』

 大鹿の敵意が膨れあがり、その威圧感はより強くなった。
 実際の圧力すら感じるその迫力に、聖羅は思わず身を引いたが、目は逸らさない。
 震えそうになる体をその場に抑え付け、ぐっと顔をあげて応じる。

「そう取られても仕方ありません。ですが、ヨウさんは私を助けると誓ってくださいました。それに甘えるのは心苦しいのですが、無力な私にはヨウさんの助けが必要なんです」

 聖羅の本心であった。
 彼女にしてみれば、ヨウの助力はとてもありがたいものであるが、同時にそれに頼り切りになるのは心苦しいところでもある。
 だが契約を重んじるこの世界で、『助けになる』と誓ってくれたヨウは、聖羅にとって唯一頼りに出来る存在であることも事実。
 例え心苦しくとも、その誓いに頼らなければならなかった。

『……なんとも、手前勝手な話でござるな』

「返す言葉もありません」

 大鹿になんと言われようと、聖羅がヨウの助けを必要としているのは事実で、ヨウは聖羅を助けることを誓っている。
 それを知ってしまった大鹿は、聖羅の提案を拒否することは出来ない。
 溜息を吐きつつも、重い腰を上げた。

『ついてくるでござる』

 そういって、歩き出した大鹿。
 後について歩きながら、聖羅は笑顔を浮かべた。

「ありがとうございます! ……そういえば、ヨウさんはどうしていらっしゃるんですか? この森はヨウさんが作り出した魔界、なんですよね?」

『作り出したのは我が主でござるが、正確には魔界ではなく、我が主の力のひとつでござる。植物を操るのは我が主の得意とするところ。その力を用いて生み出した、いうなれば仮初めの森でござる』

 ただ、と大鹿は呟いて周囲の森を見渡した。

『この規模の森、それも眷族を召還することが出来るほどの森を造り出すには、我が主といえども時が足りぬ。この空間の特異性が良い方向に働いた結果でござるな』

「リューさんの魔界が影響している、ということですか?」

『いかにも。時空の歪みというものは通常の魔界でも生まれうるが、この魔界は普通とは比にならないほど歪んでいるようでござる』

「なるほど……それもあって、リューさんの魔界は普通ではあり得ないほどに広がっているのでしょうか」

『それでも規格外すぎるゆえ、他にも秘密があるのでござろう。……そういえば、さきほどお主が抱えていたあの死告龍の眷族は、他の眷族と雰囲気が違ったでござるな。もしやあれが何らかの要になっているのではござらんか?』

 その大鹿の推測を聞き、聖羅は首を傾げる。
 彼の言う眷族が何のことかわからなかったのだ。しかし、該当するのは一頭しかいないことに気付く。

「私が抱えていたのは、眷族ではなくて――リューさんそのもの、だそうですよ? 幼体化してしまっているようですが」

 ぴたり、と大鹿の歩みが止まる。
 ぐるりとその首を聖羅の方へと向けた。

『あれが、死告龍そのもの、であると?』

「私は感覚的なものでしかわかりませんが……魔力を感知できるルレンティアさんやアーミアさんは、リューさんであると確信しているようでした」

 そう告げた聖羅は、気づけなかった。
 立ち止まって聖羅の方を向いていた大鹿の視線が、一瞬別方向を見やったのを。
 大鹿は聖羅から視線を外し、再び前を向く。

『そうでござったか……確かに生まれたての眷族にしては、戦巧者であると感じていたでござるが、死告龍そのものでござったか』

 聖羅は大鹿の静かな語調に、なぜか嫌な悪寒を感じた。
 何か言おうと、聖羅が口を開こうとしたその時。

 脇から伸びてきた植物の蔦が、聖羅の全身に絡みついた。

 聖羅が驚く間もなく、その蔦は強い力で聖羅の体を締め上げ、食い込ませ、彼女の肺から空気を絞り出す。
 加護が完全な状態であったなら蔦に行動を遮られようと、喋ることに影響が出るほど締め上げられはしない。
 大鹿と会話するために、加護を緩めていたがために、発声を阻害されるほどに締め上げられてしまったのだ。
 声もあげられずにもがく聖羅を、大鹿は申し訳なさそうな目で見つめていた。

『安心するでござる。お主を殺しはせぬ。あとで我が主の元に案内もしよう。だが――』

 主が交わした契約を、眷族は無視できない。
 ヨウが聖羅を助けると言ったのなら、眷族である大鹿もそれを最大限守らなければならないのだ。
 だが、である。

『これは死告龍を殺す千載一遇の機会――活かさせてもらうでござる』

 固い決意も露わに、大鹿が駆けだした。
 蔦に縛られ、動けない聖羅を残して。
 聖羅は大鹿を止めようと、声を振り絞ろうとしたが、口から出たのはか細い呻き声だけだった。

(まって……! くぅ……っ! う、くっ……これ、息も、できな……っ)

 ギシギシという軋む音を立てているのは、蔦か、あるいは聖羅の体か。
 いずれにせよ、締め上げる蔦の力によって呼吸が出来なくなった聖羅の意識は、為す術もなく暗転してしまった。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第七章 3


 清澄聖羅を木々の蔦を操って拘束し、動けないようにした大鹿。
 聖羅がヨウと呼ぶ大妖精の眷族の一体である彼は、そのような状態にした聖羅を放置し、砂浜へと走っていた。
 そこには憎き死告龍・リューが、四人の人間たちと共に残っているはずだった。
 大鹿が聖羅を無理矢理縛り付けてでも、いま行動したのは至極単純な理屈。

(あの死告龍を斃す機会は――いまをおいて他にないでござる!)

 細かい理由は不明であったが、死告龍の弱体化は本当であると大鹿は確信していた。
 聖羅から聴いた話だけが根拠ではない。
 普通の状態であるならば、大鹿と死告龍が勝負になるはずがないからだ。
 大鹿としては悔しいことだが、本来の力の差を考えれば、大鹿では死告龍の相手にならない。
 死告龍側に森に対してブレスを用いない、という制限はあるが、その程度はハンデにもなり得なかった。

 ブレスではなく、通常の魔法や物理的な手段であれば、森の中で戦えるからだ。

 死告龍の強さはブレス頼りの強さではない。
 様々な攻撃魔法、格闘術、観察眼や探知魔法など、あらゆる面に及ぶ。
 そのことごとくが磨き抜かれているのだ。
 たとえ大鹿が森の中に逃げ込んでも、本来であれば木々をなぎ倒し、大魔法で森を吹き飛ばし、大鹿の優位はあっというまに覆されてしまうだろう。
 だが、いまの死告龍はそうではない。
 弱体化している死告龍はそこまで理不尽な強さではなく、なればこそ、大鹿が優位に立てる環境に引き込めれば、十分に勝てる可能性があった。

(あれが眷族ではなく、本体というのであれば、拙者が命を賭けてでも斃すのは正しいはずである!)

 そう考え、森の中を走る大鹿。
 力強く駆けていた足が、急に傾いだ。
 巨体が揺らぎ、慌てて体勢を立て直す。大木に寄り掛かり、身体を支える。
 大鹿は激しく咳き込み、その口から大量の血を吐き出した。
 先ほどの戦闘で死告龍から受けた攻撃の影響、ではない。
 大鹿の体は、内部から傷ついていた。

(ぐっ……! やはり、完全には誤魔化し切れないでござるか……!)

 この世界では、誠実であることが求められる。
 それは、言葉に出した内容を遵守すればいいというだけの、単純なことではない。
 特に眷族は、自分だけではなく、主が交わす契約にも大きく縛られてしまうものだった。
 直接契約としてやり取りしていなくとも、主と他者の契約に反する不誠実なことを行おうとすれば、自身の魔力が自分自身を傷つけてしまう。
 聖羅の行動を縛り、死告龍を斃さんとする大鹿の行動は、ヨウが交わした「聖羅と死告龍を助ける」という契約から明確に背くものだ。

(知らぬままであったなら……支障はなかったのでござるが……)

 砂浜で戦ったときは、小さなドラゴンが死告龍本体だとは知らなかったし、聖羅の意図も不明だったゆえ、攻撃を仕掛けても辛うじて影響は出なかった。
 しかしいまは聖羅が「ヨウに助けて欲しい」という意図と、小さなドラゴンがヨウと契約を交わした本体であるということを知ってしまっている。
 誤魔化しの利かない状態で、明確に契約と異なることをしようとすれば、自身が傷つくことになるのは当然であった。

(だが……! それでも! ここであやつと刺し違えたとしても! 拙者の命と引き替えでも! あやつはここで斃しておかねばならぬ!)

 死告龍という存在は、この世界に生きる者にとって、災厄そのものなのだ。
 彼の主である大妖精にどんな危害を及ぼすかわからない。
 ヨウの忠臣である大鹿は、それゆえに自分の命と引き替えにしてでも、死告龍を斃さなければならないと考えている。
 決意を新たに、無理矢理体を動かして再び走り出す。
 大鹿は森から魔力を吸いあげ、自身の力を補充していた。
 急激に魔力を回復させる行為は森に負担がかかるが、それを行ってでも決戦を急ぐ必要があったのだ。

(この事実を、我が主が認知してしまっては、契約違反が致命的な域に達する――その、前に!)

 ヨウは「聖羅と死告龍を助ける」という契約を交わしている。
 ゆえに、眷族である大鹿もその契約を極力尊重しなければならない。
 いまはまだ、とある事情からヨウは聖羅・死告龍・大鹿の状況を把握していない。
 その間に死告龍を斃す。
 明確な違反を行った大鹿はいずれにしても死に至るだろうが、何も知らないヨウへのダメージは最小限に留めることが出来る。
 死告龍の脅威から主を解放できるのなら、大鹿は自身の命など惜しくはなかった。

(拙者の死に場所は、ここに定まったでござる!)

 大きな角に雷撃を宿し、大鹿は跳んだ。
 先ほど死告龍と戦った砂浜に到着する。
 戦闘の跡も生々しい砂浜。
 その一角に、聖羅たちが乗ってきた水上拠点が着岸している。
 離れていても大鹿の接近を感知していたのか、拠点の中から小さなドラゴン――死告龍・リューが外に現れていた。
 すでに戦闘態勢を取っており、小さな体に魔力が凝縮されているのがわかった。
 弱体化しているにも関わらず感じる威圧感。
 死告龍と呼ばれる存在の底知れなさを痛感しつつも、大鹿に退く気は一切なかった。
 雷を宿した角の先端を死告龍に向け、殺意を練り上げてぶつける。

『その命、頂戴いたす!』

 死を覚悟した大鹿が、死を司る怪物――死告龍へと挑む。
 大鹿の放った雷が、死告龍の展開した防御魔法に激しくぶつかって、空中で炸裂した。




 聖羅は気づけば、畳の敷かれた小さな庵に、正座で座っていた。

 庵の外に広がっているのは、時間がゆったりと流れているように錯覚するほど、落ちついた和の空間。
 恐ろしいほど精密に整えられた砂地の模様は、聖羅の知る日本庭園そのもので、これまで彼女が見てきた異世界の景色には決して無かったものだ。
 聖羅はイージェルドやオルフィルド、テーナルクに対し、日本での日常生活について色々と話していたが、日本庭園の話は話題に出なかったため、まだ話していない。
 ゆえに、聖羅は日本庭園に自分がいることにすぐ違和感を抱けた。

(この世界に日本庭園が存在するわけがない……ということは……これは……夢、ですね)

 植物の蔦に締め上げられた結果、気を失ってしまったのだと聖羅は察する。
 厳密に言えば気絶と睡眠は違うものであるため、気絶して夢を見る、というのもおかしな話なのだが、状況的にそうだとしか思えなかった。
 そして、どうしてこうなってしまったのかも思い出した聖羅は、がっくりと肩を落とす。

(うぅ……失敗してしまいました……ヨウさんのところに案内していただくまで、リューさんのことには触れないでおくべきでした)

 聖羅とて、ヨウの眷族たちがリューのことを快く思っていないであろうことはわかっていた。
 だが、まさか自分を縛り付けてまで、リューを斃しに行こうとするとは読めなかった。
 聖羅はヨウとリューがそれなりに上手くやっているところを見ていたが、眷属たちは情報としてしかそのことを知らない。
 認識の違いは仕方のないことであったが、致命的な齟齬だった。

(早く眼を覚まさないと……ん?)

 ふと、聖羅は気づく。
 夢にしては、妙に意識や体の感覚がしっかり感じられることに。
 普段普通に見ている夢の中とは違うその感覚に、覚えがあることに。
 それを確かめるため、自分の身体に視線を落とした聖羅は、その感覚が間違っていなかったことを知る。

 聖羅はいまや着慣れた――バスタオル一枚の姿だった。

 純和風な庵の中で、バスタオル一枚でいることを自覚した聖羅の頬が赤く染まる。
 バスタオル一枚の格好にも慣れてきてはいたが、畳敷きの部屋で取る格好としては違和感がことさら大きく、薄れかけていた羞恥心が煽られるのだ。
 とはいえ、バスタオル以外に持ち物はなく、耐えるしかない。
 聖羅は、何か身体を隠せるものが無いかと庵の中を見渡した。

 その眼に、のんびりと茶を点てている、美しい人型の姿が映し出された。

 聖羅が思わず目を点にしてしまったのも無理はないだろう。
 茶を点てる、という行為自体は、庵という場所に合っていると言える。
 だが、その点てている人物は、ファンタジー色の強い真っ白なローブを身に纏っており、明らかに日本人とは違う顔立ちをしているのだ。
 バスタオル一枚の聖羅とて、この場に即した姿とは言えないのに、その人物の異質さ加減は聖羅の比ではなかった。
 そんな違和感は気にしていない様子のその人型は、十分にかき混ぜたお茶を呑み、苦さにか、あるいは別の理由でか、顔を顰めた。

「ふむ……こんなものか。なかなか面白いな。このようにして茶を呑む文化はこちらの世界にはない。わびさび、というのか? 悪くない」

 ゆったりとした動作でお椀を置いたその人型は、自分を呆然と見つめる聖羅へと向き直った。

「さて、しばらくぶりだな清澄聖羅。……まさか私のことを忘れたとは言わんよな?」

 じろり、と睨め付けられた聖羅。
 無論、聖羅がその人型のことを忘れているわけがなかった。

「は、はい。ちゃんと覚えています……アハサさん。お久しぶりです」

 聖羅がこちらの世界に来てから、数度夢を通じて干渉してきている存在。
 人間ならば誰もがその存在を知るという――『月夜の王』アハサ。
 着ているローブだけではなく、その長い長髪や肌の色まで、白で統一された姿をした美しい人型。
 人の形をしているが、果たして本当に人なのかはわからない。
 その超然的な存在感からは、人外の者の気配もしていた。
 王を自称していて、口調も男性寄りではあるが、あまりに容姿が整いすぎていて、男性か女性かも判然としないのである。
 色んな意味でインパクトのあるアハサのことを忘れられるわけがない。
 聖羅の答えに、アハサは満足げに頷いた。

「うむ。まあ当然の答えではあるが、覚えていないなどと抜かしたらどうしてやろうかと思っていたところだ。新たに出会ったあの四人――テーナルク、ルレンティア、アーミア、バラノにも私のことを訊いていないだろう? まさかとは思ったが、忘れられているのかと思ってな」

 若干拗ねているようなアハサの言い様に、聖羅は言葉に詰まる。
 かつて、聖羅がアハサのことを誰にも訊けていなかったのは、以前はルィテ王国の者達を警戒してのことだった。
 騙されるのではないかということを危惧し、ルィテ王国の者とは別の情報源として、アハサを考えていたためである。
 ただ、その彼ら、彼女らと打ち解けてからも、アハサのことを訊けていなかったのは、ただ純粋に訊くのを忘れていたからだ。
 他に訊くべきこと、気にするべきことが多すぎるということもあるのだが、アハサからしてみれば自分のことを気にしていないのか、と感じても無理はなかった。

「うっ……ご、ごめんなさい」

 アハサの存在を軽んじていたつもりはないのだが、実質的には軽んじていたことになるため、聖羅は素直に謝った。
 若干拗ねていたようにも見えたアハサは、聖羅の謝罪を受けて笑顔を浮かべる。

「いいさ、許すとも。私は狭量ではないからな。それに……君がずいぶんと複雑な状況におかれていることくらい、わかっている」

「そ、そういっていただけると、助かります」

「死告龍の魔界に囚われたようだな。だからさっさと離れた方がよいと言ったのに」

「……アハサさんは、こうなるとわかっていたのですか?」

 確かに、聖羅はアハサから「死告龍とは離れた方が良い」という忠告をされていた。
 こうなることがわかっていたのかと、訊いた聖羅に対し、アハサはあっさりと首を横に振った。

「いや。こうなる、とまではわからなかった。だけどまあ、あの域に達する魔物が同じ場所に留まり続ければ、いずれ何らかの騒動を引き起こすだろうとは予想していたのだよ」

 全く迷惑な話だと、アハサは溜息を吐く。
 聖羅はアハサに対し、訊いてみることにした。

「アハサさんはリューさんの魔界の外におられるんですよね? 外はどうなってしまっているのですか? ルィテ王国の街は……どうなっていますか?」

 その問いにアハサはすぐに答えず、まず確認する。

「ふむ。そちらではすでに半日以上の時間が経過したのだったかな? 内と外で時空の歪みが生じることは稀によくあることだが、死告龍の魔界はそれが顕著だ。具体的には、外では魔界が生じて一時間も経過していない」

「そんなに、ズレが……!」

「ちなみに、魔界に飲まれたのはルィテ王国の王城のみ。城下町までは影響は出ていない。王城にいた三百二十八人は、ほぼ全員取り込まれたがね」

 淡々と告げられた事実に、聖羅は青ざめる。

「そんなに取り込まれた人が……!」

「完全に展開する前の混乱に乗じて、魔界化から逃れることに成功したのは、イージェルドのみのようだ。小国の王でも、王は王と言ったところか」

 アハサの告げた事実に、聖羅は少し安堵する。
 色んな国の重要人物が取り込まれている時点で大問題であるが、国の頂点に位置する王が魔界から逃れているというのは、数少ない明るい情報だった。
 だが。

「ちなみにそのイージェルドは今現在、魔界に取り込まれた者達を救出すべく、戦力をまとめ上げているようだ。もっとも、外と中では時間の流れが違うから、実際に彼らが突入できるのは、取り込まれた君たちの感覚では何週間も経ってからのことだろうけどね」

 明るい情報を塗りつぶすほどの絶望的な情報を示され、安堵に緩みかけた聖羅の表情が再び強ばった。

「そ、そんなに……! それでは、ダメです……!」

 聖羅は焦りと共にそう呟いた。
 助けが来るにしても、そんなに時間が経ってからでは遅すぎる。
 取り込まれた人々が助かる可能性も低くなってしまう。
 聖羅はアハサに対し、必死になって尋ねた。

「アハサさん、どうにか、どうにかならないんでしょうか……!」

「ふむ……そうだねぇ」

 アハサは少し考え込む様子を見せてから、聖羅の問いに答える。

「死告龍の魔界化は極めて特異なものだ。外側からの干渉が難しい以上、内側で対応するしかないだろうね。……ただ、少し調べてみたが、魔界の対応策として基本である『起点となっている主を斃す』という対応は現段階ではお薦めしない」

 その方針はすでに一度話題に出ていたことであった。
 聖羅としては出来れば取りたくない方針であったため、アハサから「お薦めしない」と言ったこと自体は、聖羅には歓迎できることだ。
 しかし、死告龍に対して良い感情を抱いていないらしいアハサがそう言った理由は気になった。

「どうして、ですか?」

「うむ。魔界を発生させた主を斃すというのは、もっともシンプルで確実な対応策ではある。魔界における主という存在は、基盤であり、要だ。魔界がなくとも主は存在出来るが、主がいなければ魔界はその存在を維持できずに自己崩壊してしまう。それはどんな魔界でも変わらない基本なのだよ」

「では、それを推奨しないという理由は……?」

「なに、とても簡単な話だよ、清澄聖羅」

 アハサは相変わらず超然とした態度であったが、わずかに、忌々しげな表情を浮かべていた。
 そして、その理由を口にする。

「死告龍の魔界は――要の役割を、その眷族が奪い取りつつある状態にあるからだ」

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第七章 おわり


 砂浜で大爆発が起こり、細かな砂が舞い上がった。
 大鹿が絶え間なく攻撃魔法を仕掛けるのに対し、死告龍が恐ろしく正確な反撃をくり出して迎撃しているのだ。ことごとくが空中で撃ち落とされ、炸裂しては爆風を撒き散らす。
 大鹿の攻撃魔法は雷が主体であり、その速さ・鋭さは並みの魔法使いでは対応できない。
 森から魔力の供給を受けていることもあり、物量によって圧倒することも容易だ。
 事実、死告龍の眷族であった大蜘蛛はその飽和攻撃に耐えきれず、屍を晒した。
 死告龍の魔力も無尽蔵ではないが、小さな攻撃魔法で大鹿の魔法を撃墜することで、防御魔法を張り巡らせるより遙かに少ない魔力消費で耐えている。

(遠距離戦では、埒が明かないでござるな……ならば!)

 一息に距離を詰め、大きな角を振るって直接攻撃に出る大鹿。
 その一撃を、死告龍は振るわれる角に合わせ、空中を滑るように動くことで、威力を殺しながら受け止めた。
 見る者が見れば、武術の合気道のように相手の動きを完全に読み切って動いたのがわかっただろう。
 さらに、死告龍は前脚で大鹿の角をしっかと固定すると、今度は逆に、力任せに大鹿を振り回す。

『なんとっ!?』

 大鹿が驚愕する間にも、振り回す勢いは更に増し、空高く放り投げられた。
 死告龍の口が大きく開き、黒い光が口内に集中する。
 背筋に悪寒を感じた大鹿は空気中に魔力で足場を形成。
 その足場を蹴って素早く、大きく移動した。
 即死のブレスが大鹿の一瞬前までいた空間を薙ぎ払うのを感じつつ、大鹿は歯噛みする。

(なんという……! 奴も消耗はしているはず……なのに、どんどん攻撃が鋭くなるでござる! これが、死告龍……!)

 死告龍は幼体化し、確かに弱体している。
 だが、戦いが続くにつれて『現在の状態での最適解』を見出しているかの如く、戦闘技術が向上していた。
 戦い始めた当初は互角だった実力が、時間が経つごとに開いていく感覚を大鹿は覚えていた。その事実に焦りが生まれる。
 この戦いは、主であるヨウと死告龍との間で交わされた契約に違反する。
 そのことを大鹿は半ば知りながら死告龍に戦いを挑んでいるため、時間が経つごとにその力は減じてしまっていた。
 だが、自身の消耗を差し引いても、ここまで急激に死告龍が成長し、差を付けられるのは想定外であった。

(まずい、このまま、では……!)

 砂浜から一端退いて、森との境界線に移動した大鹿。
 死告龍はその大鹿に向けて追撃の攻撃魔法を放った。魔法には即死効果は乗らないため、大鹿も得意の雷撃魔法を放って普通に撃ち落とす。
 『森に向かってブレスを吐かない』という契約は有効であるようで、森を背にすればブレスを封じることは可能だった。
 だが、大鹿は死告龍が直接攻撃に来ないことを不思議に思う。

(なぜ森の中に入って来ない……? ブレスを放つことは出来なくとも、直接即死の効果を乗せて殴ることは出来るはずでござる。木々の生い茂った森の中は、小回りの利くあやつならば有利に戦えるであろうに……)

 無論、大鹿とて森の中が本来いるべきところであるため、自分が絶対に不利だとは思わない。
 死告龍の力を鑑みると、植物を操って動きを封じることは出来ないであろうが、目隠しに利用したり、視界の端で動かして気を散らしたりとやれることは多い。
 森の中での戦闘は完全に有利とは言いがたいが、不利であるわけではなく、もし死告龍が踏み込んでくるのならば迎え撃つ用意は十分にあった。
 だが、予想に反して、死告龍は砂浜から離れようとしない。

(……まさか、あの人間どもを守っている、とでも? 馬鹿な、あり得ぬ)

 戦いが始まってすぐ、水上拠点の中に引っ込んでしまった人間たち。巻きこまれればただでは済まないし、死告龍と連携が取れない以上、邪魔にならないところに引っ込んでいるのは正しい選択だった。
 死告龍が執着している清澄聖羅に関しては、大鹿もヨウを通じて情報を得ているため、気にかけている理由はわかっていた。
 正確には死告龍の真意こそわからなかったが、聖羅が異世界からの来訪者であるという情報は得ているため、何らかの理由でその特異性に惹かれたのだろうと推測が出来たのだ。
 その聖羅がその場にいるのであれば、死告龍が砂浜から動こうとしないのは納得がいく話なのだが、聖羅がそこにいないことを大鹿は知っている。
 この場にいるのは、死告龍にしてみれば取るに足らない人間だけのはずだった。
 それを守ろうとしているとは、大鹿には考え難かった。

(いずれにせよ、このままではジリ貧……ならば!)

 大鹿は狙いを変えることにした。
 森の中で呪文の詠唱を開始し、巨大な雷撃の槍を森の木々に隠れて生み出す。
 その狙いは、人間たちが隠れている水上の建築物。
 死告龍が人間たちを守ろうとしているのなら、必ず受けざるを得ない。
 詠唱を重ね、死告龍の防御魔法では凌ぎきれないほどに強力な魔法を練り上げる。
 意図に気づいたらしい死告龍が攻撃魔法を放ってきたが、それは木々を盾にして凌いだ。木々にダメージを受けるのは、長期的に見れば得られる魔力を削られていることになるが、いまこの瞬間を凌げれば、魔法は練り上げられる。
 魔法を放つ寸前、死告龍が大鹿と水上拠点の間に割り込んだ。

(やはり守ろうとしているのは間違いないのでござるか――)

 災厄の化身とも呼ばれる死告龍が、何かを守ろうとしている。
 その事実に大鹿は死告龍の変化を感じたが、しかし攻撃をやめるつもりはなかった。
 死告龍を倒す機会はいまここにしかないと考えているためだ。
 練り上げた雷撃の槍の切っ先を、死告龍へと、正確にはその向こうの水上拠点へと合わせる。
 必殺の威力を込めた槍。
 いまの大鹿の状態では、それが決定打にならなければ敗北は必定である。
 全てを賭けた一撃。

『これにて仕舞いでござる――喰らえ』

 大鹿の巨大な体躯を遙かに上回る巨大な雷槍が、轟音と共に放たれる。
 その穂先は空中を高速で走り、狙い通りにルレンティアの作った水上拠点に着弾した。
 雷槍に込められた魔法が炸裂し、石造りの水上拠点を粉々に爆散させる。

 飛び散った水上拠点の欠片が湖上に落ち、大きな水柱が立ち上った。




「死告龍の魔界は――要の役割を、その眷族が奪い取りつつある状態にあるからだ」

 アハサから告げられた内容に、聖羅は目を見開く。
 彼女はこの世界の常識にまだまだ疎く、そういった眷族の行動がどの程度危険なのかは、正直実感出来ていないところもある。
 しかし、死告龍の眷族がリューの魔界を乗っ取ろうとしている、ということは理解出来たし、それをアハサが歓迎していないことも明らかだった。

「それは……とてもよくないこと、ですよね?」

「無論だ。現状の奴は死告龍の眷族であることで行動に制限がかかっている。魔界内に囚われている人間たちをひとりも殺さず、すべからく魔力供給源にしているのも、死告龍の契約に縛られているからだと考えられる」

「皆さん、生きていらっしゃるんですか!?」

 ことごとくが規格外の魔界だったため、すでに犠牲者が出ていておかしくない、と聖羅は覚悟していたのだ。
 どういう理由であれ、まだ犠牲者が出ていないとすれば、それは歓迎すべきことである。
 聖羅の驚きの声を、アハサは頷いて肯定する。

「ああ、驚くべきことに、いまのところ囚われた者に死者は出ていない。だが、もしあの眷族が死告龍の眷族でなくなれば、主が交わした契約を遵守しなければならないという制限もなくなる。いまは活かさず殺さず、魔力を搾り取っているようだが……制限がなくなれば、全ての魔力を根こそぎ奪って殺すだろうね」

「そんな……! なんとか、しないと……!」

 聖羅は焦りを滲ませて立ち上がったが、それをアハサが制する。

「落ち着け、清澄聖羅。ここが夢の世界だということを忘れているだろう。焦って目覚めたとして、どうしようもなかろう?」

 アハサに指摘され、聖羅は自身が植物の蔦によって拘束されている現実を思い出した。
 仮にこの夢の世界から醒めたとしても、どうしようもできない。
 浮かび上がらせていた腰を、再び落とす。

「……ど、どうしましょう」

「少々難しいが、蔦の拘束に関しては私がどうにかしてやろう。君が考えるべきは、目覚めたあとどうするか、だ」

「そのあと……? あっ! そういえば……! まずいです、ヨウさんの眷族さんが、リューさんを倒そうとしているんです!」

 早く止めなければ、死告龍が倒され、その時点で要の役割が引き継がれることになりかねない。
 益々焦る聖羅に対し、アハサは顎に手を当てて考え込む様子を見せた。

「……それに関しては心配する必要はないと思うがね。主の大妖精でもどうにもならなかった死告龍を、その眷族如きがどうにか出来るとは思えない。たとえ死告龍が弱体化している状態であったとしても、だ。……とはいえ、戦いにおいて絶対は存在しないし、万が一でも死告龍が倒されることがあれば、囚われた者達は終わりだ」

「とにかく、まずは鹿さんを止めないと!」

「どう止めるのかな?」

 即座に問われ、聖羅は考える。
 止まって欲しいと願ったところで、あの大鹿が止まることはないであろうことは容易に想像できる。ヨウの庇護を受けている聖羅を、縛り付けてまで戦いに赴いたのだ。それを覆すには、聖羅本人の力ではどうしようもなかった。

「……ヨウさんと会って、鹿さんを止めるように頼みます。ヨウさんの言うことなら、聞いてくれると思いますし」

「そうだな。それが現実的だろうね。だが……大妖精のいる場所はわかるのか?」

 アハサの問いに、聖羅は唸る。

「難しい……ですが。鹿さんは私がリューさんが弱体化していることを知るまでは、私をヨウさんの元に案内するつもりがあったようでした。向かおうとしていた方向に行けば……」

 徐々に聖羅の声が小さくなる。
 森の中というのは、方向がわからなくなりがちな場所であり、何の知識も道具も持っていない聖羅が狙った方向にまっすぐ歩けるかといえば、そうではない。
 すぐに方向を見失って闇雲に進むことになるのが、容易に想像出来てしまったのだ。

(それでは、ダメですね……最短でヨウさんに会うためには……どうしたら……)

「ふむ。大妖精のいる場所までには、様々な妨害魔法が張り巡らせてあるはずだ。それならば、やりようはある」

 アハサはそう呟きつつ、目を閉じ、瞼の上から人差し指と中指をそれぞれの眼球に触れさせる。
 すると、青白い光が指先に灯り、まるで鬼火のように揺れた。

「私の『目』を貸してあげよう。君の感覚でいうところの『コンタクト』だと思えばいいから、魔力酔いの心配はないよ。これによって君の目も魔力を見ることが出来る。そうすれば、どの方向に魔法が多いか、わかるはずだ」

 そう告げたアハサが、聖羅に向けて指を振り、その鬼火を放った。
 鬼火は吸い込まれるように聖羅の目に滑り込み、聖羅は思わず目を瞑った。
 目に熱を感じると同時に、体の感覚が揺らぎ、自分が座っているのか、立っているかもわからなくなる。

「ではまたな、清澄聖羅。次こそはゆっくり話が出来ることを祈っているよ」

「……っ、ま、待ってください! アハサさん、なぜあなたは――」

 夢の世界に現れては、親切にも助言をしてくれるアハサ。
 今回に至っては『目』を貸すという助力までしてくれている。
 その真意がわからず、そうまでしてくれる理由がわからない聖羅は、そう口にしかけた。
 目を開けようとしたが、光に眼が眩んだ時のように、瞼を開いてもそこに映像は映し出されなかった。
 ただ、銀河の瞬く夜空のような、強大な存在が見えていた。

「私のような存在にとって――君の存在はとても興味深いからさ」

 楽しげに告げられたその言葉を最後に、聖羅の意識は再び闇に落ちていった。
 夢の世界から、現実の世界へ。
 意識が戻っていくのを聖羅は自覚できていた。

「……ッ、はっ!」

 全身を締め上げられる息苦しさに、聖羅の意識が覚醒する。
 禍々しいオーラのようなものを纏った植物の蔦が、聖羅の体に巻き付いていた。

(これが、もしかして魔力……? こんなにはっきりと見えていたなんて。……いえ、これはアハサさんの『目』だからでしょうか……?)

 新しい視界に聖羅が驚いていると、植物の蔦が宿している魔力とは別の色の魔力がじわりとその植物たちを浸食していった。
 すると、植物たちが枯れ始め、聖羅の力でも引きちぎれるほどボロボロになった。
 バスタオルを腰に巻いて、胸を手で庇っている形になった聖羅は、残った蔦を振り払い、自分の足で地面に立つ。

「アハサさん……! ありがとうございます!」

 聞こえているのかどうかはわからなかったが、アハサに礼をいう。
 その後、聖羅は素早く周囲を見渡した。周囲の鬱蒼とした森は変わらずそこにあり、方向はわからない。
 ただ、遠くから大きな爆発音が轟いたのを、聖羅は耳で捉える。

「急がないと……!」

 目を凝らし、かけられている魔法が多そうな方向を探す。
 聖羅は圧倒的に魔力が多く渦を巻いている方向を見ることが出来た。
 曼荼羅のように複雑に魔力が絡み合っているのを見て、思わず足が竦んだが、バスタオルの加護を信じ、突き進むしかなかった。

(完全な状態にしておくべきでしょうか……? いえ、それだともし誰かが話しかけてきてくれた時にわかりません)

 ヨウならば目の前に現れてくれるかもしれないが、そうでなければ姿は現さない場合もありうる。また、ヨウもすぐに目の前に出てこれない可能性もあり、危険はあったがそのままの状態で走る。
 揺れそうになる胸はしっかり腕で押さえ、聖羅は走った。

(……っ、恥ずかしい、ですけど……! あの時に比べたら!)

 以前、争うリューとヨウを止めるため、全裸で全力疾走した時のことを思い出していた。
 あの時に比べれば、腰にバスタオル巻いている分、まだましというものだ。
 決してそういった格好になれてしまってきているわけではない、と聖羅は自分に言い聞かせつつ、森の中を疾走する。

「ヨウさん! もしくはヨウさんの眷族さん! 助けてくださいっ!」

 そう叫びながら聖羅は走る。
 大鹿との対話を経て、少なくとも眷族にも話が通じるということは確認が取れた。
 会うまでは話が通じないという可能性を高く見積もって、防御力を最大にしておく必要があった。
 実際、大鹿は出会って即座に襲いかかってきたため、防御力を最大にする判断は間違っていなかった。
 だがいまは状況が違う。
 一刻も早くヨウとコンタクトを取り、大鹿を止めて貰わなければならない。
 そして眷族にも翻訳魔法が周知されているというのであれば、助けを求めて叫びながら走るという行為が最善策になり得る。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! ヨウさん! 助けてください!」

 ヨウと交わした契約がある以上、明確に助けを求めている聖羅を眷族が傷つけることは出来ない。
 それでもなお攻撃される危険はあったが、それを踏まえても叫ぶことを聖羅は選んだ。
 そして、その結果。

『せいら、せいら。こっち、こっち』

 小さな一体の妖精が、聖羅を呼んだ。
 聖羅はその妖精の先導に従って、その後を追う。
 周囲に張り巡らされた魔法はどんどん数を増し、その密度も途方もないものになっていっていた。

(これは……なるほど、ルレンティアさんたちのいうことがわかりました……!)

 聖羅は見えるだけだが、魔力を持つこの世界の人間はその密度の魔法があるということを感じ取る。
 見えるだけでも尻込みしてしまう威圧感があるのに、感じることも出来るのなら、確かに死告龍や大妖精の前に立つのは恐ろしいだろう。
 聖羅は魔力を持った者の視覚を経験したことで、彼女たちの気持ちを理解することが出来ていた。

(ですが、いまはそのことを気にしてるわけにはいきません……!)

 聖羅は小妖精の導きに従って、森の中を走る。
 ヨウがいるはずの場所に近付いているという確信があった。
 そしてその確信は過たず、確かに聖羅はヨウの傍までたどり着いた。
 木々の開けた広場に、巨大な植物の蔦で形作られた籠がある。
 球形の籠の中には、聖羅と契約した大妖精・ヨウが浮かんでいて、その裸身に無数の蔦を絡ませていた。
 目を閉じ、何かに集中しているようなその姿。
 聖羅はようやく、ヨウの元にやってくることが出来たのだ。

 だが、しかし。
 そこには先客がいた。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第八章 1


 大鹿の渾身の一撃でルレンティアが創った水上拠点が吹き飛ぶ――と、同時に死告龍・リューは大鹿の懐に飛び込んでいた。

(なっ!? 馬鹿な……っ!)

 そう大鹿が思った時には、リューは身体ごと縦に回転して攻撃に移っている。
 黒い霧を纏った尻尾の一撃が、大鹿の頭部に叩き込まれた。
 凄まじい衝撃が走り、大鹿の頭が身体ごと地面に叩きつけられる。
 その立派な角の片方が根元からへし折れ、その表面に貯められていた魔法の雷が周囲に拡散する。
 大鹿の意識が飛びそうになったが、拡散された雷の刺激が彼の意識を繋ぎ止めた。

(人間たちを守ろうとしたのは誘いだったとでも……!?)

 強烈な一打を受けた大鹿だったが、反射魔法はまだ活きていた。
 引き延ばされた体感の中、死告龍の意図を知る。
 大鹿の攻撃により、吹き飛ばされた水上拠点。
 吹き飛んだのは、水上拠点だけだったのだ。
 中に逃げ込んだはずの人間達の姿は、どこにもない。

(ぬかっ、た……! 不覚!)

 水上拠点に逃げ込んだ者達はその中に留まらず、裏側か底からすでに退去していたのだ。
 そのことを死告龍は気づいていて、あえて水上拠点を守るような動きを見せた。
 結果、まんまと乗せられた大鹿は死告龍ではなく水上拠点に狙いを定め、攻撃を放った。
 それと同時に死告龍は攻撃をかいくぐり、逆に大鹿を仕留めに動いた。
 すべては死告龍の思惑の内だったのだ。

(死告龍……! やはり、こやつは、危険でござる……!)

 再度立ち上がろうとした大鹿の頭部に、死告龍が前脚を置く。
 見た目の体格差は歴然だが、大鹿はまるで巨大な岩に抑え込まれたかのように身動きが取れなくなった。
 悪あがきで幾度か雷撃を放つが、半分になった角の力では死告龍に痛打を与えることはできない。
 死告龍は防御魔法を唱えることもなく、鱗の頑丈さだけで雷が霧散させられた。

『ぐ……っ! お、おのれぇ……!』

 圧倒的な強さを示された形になった大鹿は歯噛みしつつも、奇妙に思っていた。
 すでに勝敗は決している。渾身の一撃を空撃ちさせられ、角の片方を折られ、元々弱体化しつつあった大鹿は致命的なまでに力を失った。
 一方の死告龍は消耗こそ激しいようではあるが、いまだ十分に気力体力が残っている。
 死告龍がその気になれば即死のブレスを放ち、トドメを刺すことは容易なはずだった。
 そうされていないことに、大鹿は戸惑い、同時に情けない思いで歯噛みする。
 なぜならそれは『殺し合い』になっていなかったことを示すからだ。

『なぜ、殺さぬ……! 情けをかけているつもりでござるか……!』

 トドメを刺さないということは、死告龍は大鹿を殺すつもりがないということになる。
 大鹿は殺す気で挑んだというのに、だ。
 己の決意を弄ばれているような、そんな悔しい感覚だった。
 その大鹿の血を吐くような問いに対し、死告龍はただ小首を傾げた。言われている内容がわからないと言いたげなその動作に、さらに苛立ちを募らせた大鹿が吠える。

『ふざけるなでござる! こちらの言葉が理解出来ていないとは言わせぬぞ! そのような幼稚な精神で、ここまで戦略的に動けるものか!』

 その大鹿の恫喝に応えたのは、死告龍自身ではなかった。

「いや、それはどうですかにゃー? 死告龍様は戦いの申し子だからにゃあ。最適解を見出した結果であっても驚かないにゃ」

 独特の語尾で話すフィルカードの獣人の姫・ルレンティアが自分の意見を述べる。
 勝敗が決したのを見てか、姿をくらましていた人間達が現れていた。
 砂浜に掘られた穴から出てきた彼女らは、砂まみれになってはいたが、死告龍と大鹿との戦いの余波で怪我をすることはなかったようだ。
 ログアンの姫巫女・アーミアが、服についた砂を払いながら口を開く。

「……そもそもあなたが死告龍様と殺し合いをする理由はないはず」

「そうですわ。死告龍様と大妖精様は協力関係にあるはずです。お二方が協力関係にある以上、大妖精様の眷属のあなたが、死告龍様と戦う必要はございません」

 ルィテの姫・テーナルクもアーミアに同意した。
 大鹿の攻撃でかなりのダメージを受けていた彼女だったが、そこに思うところはないらしく、自然体で大鹿に呼び掛けている。人に肩を借りて立っているものの、優れた治癒力を発揮し、動けない状態からは脱していた。
 そんな彼女に肩を貸しているザズグドズ帝国の書記官にして戦略家のバラノも、テーナルクの意見に同意する。

「規格外の魔界展開能力を見て、警戒するのは無理もありません。その要を倒さんとするあなたの判断は、あるいは正しいのかもしれません。……ですが、不確定要素が多すぎます。仮に要を崩せたとして――この広大かつ強大な魔界がどうなるか。自己崩壊するだけなら良いですが、内部にいるもの全てが死滅するという可能性も低くありません」

 死告龍は即死の力を持つ。
 眷属にもその一部が引き継がれており、それは魔界にもその性質が影響していることを示している。
 実際、炎の魔物が作り出した魔界は、要の魔物が死んだ時、魔界自体も炎となって燃え尽きたという事例もあった。
 その事例に関しては、炎の魔物がそうなるように仕組んでいたことも大きいのだが、死告龍の魔界がそうなっていない保証はない。

「いずれにせよ、この魔界に対する分析も解析も足りていません。現状のまま動くのは危険であると進言させていただきます。下手な対処は、あなたの主である大妖精様を危険にさらすと考えた方がよろしいかと」

 戦略家もであるバラノはそう結論を口にする。
 大鹿は悔しげに唸った。

『……っ、ぐぬぅ……!』

 彼女たちの推測を撥ね除けられるほどの理屈も、力も持ち合わせていなかった。
 いずれにせよ、死告龍との戦いに敗北した以上、大鹿にできることは何もない。
 負けを認めて、死告龍の排除を諦めるしかなかった。

『……参った、でござる』

 密かに練り上げていた雷を霧散させ、大鹿は脱力する。
 頭を抑えられた状態でのその行為は、相手に生殺与奪を完全に委ねる証だった。
 死告龍は油断無く大鹿の頭部を抑え続け、人間たちはほっと一息を吐く。

「納得してくれてありがたいにゃ。大妖精様の眷属であるあなたには、色々と聞きたいことがあるからにゃ」

「そうですわね。ともあれ、あなたの主と合流いたしましょう。……と、それより前にセイラさんと合流する必要がありますわ」

「セイラさんはあなたに会いに行ったはず。彼女はどうしたの?」

 アーミアの問いに、大鹿は気まずそうに目を反らしながら応えた。

『あの者は無事でござる。大人しくしていてもらうため、拘束はしたでござるが――』

 そういって、大鹿が聖羅を置いてきた場所を伝えようとした時。
 それは起きた。

『すべての眷属に告げる! 私の元に来て、セイラの守護を最優先! 彼女を護って!』

 大妖精の焦った声が聞こえると同時に、森の一角から光弾が撃ち上がる。
 それが緊急を告げる言葉で、現在地を示す合図だと、その場にいる誰もが理解する。
 即座に動いたのは、死告龍だった。
 抑えていた大鹿の頭部から手を離し、光弾が打ち上げられた元へ猛速度で飛んでいく。
 解放された大鹿がフラつきながらも立ち上がり、駆け出す。

『バカな……なぜ我が主の元に……!? 急がねば!』

「あーみん! 回復魔法を! てーなるん、バラノ、付いてくるにゃ!」

 ルレンティアが即座にアーミアを抱え上げ、大鹿と並走する。抱え上げられたアーミアは走ることに意識を裂かずに済む分、大鹿へと回復魔法を唱えた。
 テーナルクとバラノも遅れて彼女たちに続く。
 アーミアの回復魔法によって、若干持ち直した大鹿は、悔しげな顔をしつつも、礼を言った。

『かたじけない! いまはありがたく受け取るでござる!』

「礼には及ばないにゃ! 緊急事態なんだにゃ!?」

『うむ……我が主の結界を突破しうるとは……! なんなのだ、死告龍という存在は! 本体も眷属も規格外すぎる!』

「死告龍様の眷属の仕業なのですか?」

『そうとしか考えられぬ! 仮にキヨズミセイラが何らかの方法で我が拘束を解いて、独力で我が主と合流せしめたとしても……我が主はあのような行動は取るまい!』

「……確かに、あれは大妖精様かセイラさんに危機が迫っている様子でしたわね」

「貴方の行動を止めるため……という線もありましたが、それならそうといえばいいだけですしね」

 話しながら走る一体と四人。
 そんな彼らの周りを、大鹿と同様、大妖精の眷属らしい魔物たちが併走していた。
 いずれも大鹿に負けず劣らずの大物ばかりだ。

「眷属がまだこんにゃに……!? なぜ、全員でかからなかったにゃ?」

 ルレンティアは周りにいる眷属たちの力量を見て、率直にそう尋ねた。
 大鹿が単独ではなく、複数の眷属と連携していたら、もしかすると死告龍を倒し得ていたかもしれないからだ。
 その問いに対し、大鹿は顔を顰め、何も答えなかった。代わりに口を開いたのは、ルレンティアに抱えられているアーミアだ。

「ルレンティア、本体と眷属の関係を考えると簡単。大妖精様はセイラさんを守る立場」

 糸口を示されれば、ルレンティアも察する。

「なるほどにゃ。本来は戦ってはいけないわけだにゃ。なのに戦えば、契約不履行で本体にも他の眷属にもダメージが入る。それを軽減するために、独りで挑まなければならなかった、と」

「そういうこと……普通はしない」

 それだけ大鹿が死告龍の存在を危険視していたということなのだ。
 疑問が晴れたところで、遠くの方から炸裂音が轟いてきた。それも複数。

「今度はなんにゃ!?」

「恐らく、大妖精様の眷属が相手をしていた敵が、森を破壊し始めたのでしょう」

 そう端的に告げたのはバラノだ。
 策略家たる彼女の言に、周りの眷属たちから肯定の反応ある。
 ルレンティアはなるほど、とバラノの戦略眼を評価した。

(そういえば、この鹿も最初は死告龍の眷属らしき蜘蛛を倒していたにゃ……他のそこかしこで、同様の睨み合いが発生していた、ということかにゃ? けれど、それならなんであの蜘蛛だけ森の中に……?)

 ルレンティアはそう考え、そのうちほとんどは正鵠を射ていた。
 最後の疑問については、彼女にわかるはずもない。
 テーナルクとバラノを取り逃がした大蜘蛛が、上位者にその失態を責められ、功を焦っていたなどということは。
 無論わからないままでも、否が応でも事態は進む。
 進行方向で、一際大きな爆発が起きた。

「まずい……ッ! 伏せるにゃ!」

 とっさにルレンティアはアーミアを懐に抱えたまま、大鹿の影に伏せる。
 一拍遅れて、テーナルクとバラノもルレンティアたちがいる場所に伏せた。
 大鹿が前方に防御魔法を張るのと同時に、強烈な衝撃波が過ぎ去っていく。
 轟音が森中に響き、大気を震わせた。

「砲撃魔法でも暴発させたのにゃ!? 耳がいたいにゃあ!」

 ルレンティアの耳は獣の耳であるため、人間のそれと違い、伏せることができる。
 だが、それをしてなお、轟音は彼女の耳をつんざき、頭痛まで引き起こしていた。
 彼女の耳が良すぎることもあるのだが、他の者も顔をしかめずにはいられない、凄まじい轟音であった。

『主……!』

 爆風を凌いだ大鹿が再度駆け出す。それにルレンティアたちも続いた。
 そして彼女たちは見た。
 前方に見えた森の一部が、爆発によってすり鉢状に吹き飛んでいる光景を。
 クレーターの底に、先に聖羅の元に向かっていた死告龍が横たわっているのを。
 その上空で清澄聖羅が、大妖精ごと結界に囚われている様を。

 そして、更に上空に――実に禍々しいフォルムをした七つ首の竜が君臨していた。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第八章 2


 上空には禍々しい姿をした八つ首の竜。
 そのすぐ下に聖女・清澄聖羅と大妖精・ヨウが、幾何学模様の結界の中に捕らえられている。
 さらに彼女たちの下、地面に出来たクレーターの中心部に、子犬ほどに小さくなった死告龍・リューが横たわっていた。

 そんな場に駆けつけたのは、四人の人間と、数多の魔物たち。
 ルィテ王国の姫・テーナルク、北の国ログアンの姫御子・アーミア、南の湖国の獣人姫・ルレンティア、東の大国ザズグドズの戦略家にして書記官・バラノ。
 彼女たちは各国の要人である。
 ヨウの眷属である大鹿。その雄々しい角の片方は折れ、いまにも倒れてしまいそうなほど消耗している。
 ヨウの眷属は大鹿の他にも数体その場に集っており、主たるヨウの危機に気炎をあげていた。

『貴様……っ! 我が主を放すでござる!』

 満身創痍でも気力だけは衰えていないのか、大鹿が八つ首の竜に向かって吠えた。
 空に浮かぶ八つ首の竜は、そのハ対の瞳で、地上にいる者達を見下ろしている。

『ふん、いまさら貴様ら眷属風情が何匹集まろうと無駄なこと』

 八つの首がそれぞれ魔法を唱え、首ごとに違う属性の魔法を紡ぎ出し始める。
 その膨大な魔力の渦を前にして、相対した者達の身体が強張った。

『くっ……! 雷よ!』

 大鹿は力を振り絞って対抗魔法を唱えたが、魔法が激突した結果、衝撃波が襲いかかってその巨体がなぎ倒される。
 その他の魔法については、大鹿以外の眷属が迎撃したり、結界術を得意とするアーミアが防いだりしたが、力の差は歴然だった。

「なんて強さだにゃ……! いままでの死告龍の眷属に比べて、桁が違いすぎるにゃ!」

 全身の毛を逆立て、ルレンティアが唸る。

「でも、おかしいです! 死告龍様と大妖精様は契約を結んでいるはず……なら、眷属同士が争うことはしないはずですのに……っ」

 侵略国家であるザズグドズ帝国に所属するバラノはそう呻く。
 侵略が国是である帝国では、侵略する対象は人間の国家だけではない。
 むしろ魔物が治めている地域こそ、帝国にとって積極的に攻略する対象だった。
 それは魔族との戦いが頻繁に起こるということでもあり、当然その魔物に対する対策というものが積極的に練られている。
 その常識からすると、一時的にとはいえ、主同士が一定の友好関係にある場合、眷属同士でも争うことはなかった。
 通例を踏まえた疑問に、八つ首の竜は平然と応える。

『なに、簡単な話ですぞ? 確かに主の交わした契約はその眷属にも影響を与える……ですが、その眷属が主を超えた存在になれば、主の交わした契約に縛られる道理などありません』

「主を超えた、存在……?」

 四人の人間の中で、魔物の眷属に関して最も詳しいのはアーミアだ。
 特定の魔物とその眷属と交流を古くから続けているログアンの姫御子である彼女は、それだけ魔物と眷属との交流も深い。

「眷属の力が強くなりすぎて、主の眷属じゃなくなるってこと……? そんなこと、聞いたことない」

『普通はないでしょうな。……実際、我が主がその力の大半を失わなければ、超えることなど、とても敵わぬことだった』

 得意げに、しかしどこか寂しげに八つ首の竜は呟く。
 その瞳の一部は、地上のクレーターの中心に倒れたまま動かないリューへと向いている。

『しかし、こうなった以上は儂こそが、この魔界の主に相応しい力を有する――誰にも邪魔はさせませぬ』

 八つの竜から、再び膨大な魔力があふれ出す。
 そのあまりに強大な力を前に、居合わせた者達の間に絶望が広がった。




――少し時間は巻き戻る。

 大鹿を説得する役割を担い、単独で森の中に入った清澄聖羅。
 大妖精の元まで案内するように大鹿に頼むことには成功した聖羅だったが、話の中で死告龍が弱体化していることを大鹿に話してしまい、大鹿に決死の覚悟を決めさせてしまう。
 自分の命と引き替えにする覚悟を持った大鹿によって聖羅は森の中に拘束され、置き去りにされてしまったのだ。
 そんな彼女を助けてくれたのは、彼女の夢の中にたびたび現れる『月夜の王』アハサ。
 彼は聖羅を拘束していた植物の蔦を枯らして彼女を解き放ち、さらには魔力の流れを見ることが出来るようにする『目』を貸し与えた。
 そのアハサの助けのおかげで、無事大妖精・ヨウの元にたどり着くことに成功した聖羅であったが、そこで想定外のことが起きた。

 大妖精・ヨウの元には、先客が存在したのだ。

 ヨウは彼女を守るように展開する植物の蔦の籠の中で丸まり、目を瞑っていた。眠っているようにも見える。
 そんなヨウの前に、人型の『何か』が立っていた。
 それは一見、人間の老紳士のように見えたが、その場違いなほど余裕のある態度や、森の中を進んで来たとは思えない豪華な衣服など、違和感の大きな姿だった。
 そしてなにより、月夜の王・アハサから借り受けた『目』を有する聖羅には、その老紳士が警戒しなければならない存在だと理解出来た。

(こ、この人の全身から……明らかにおかしい量の魔力が溢れ出してます……! 顔が、よく見えません……!)

 聖羅の接近に気付いて振り返った老紳士の顔は、その身体から立ち上る怪しげな光によって、覆い潰されていたのだ。
 明らかに普通の人間ではありえない、と聖羅は直感していた。
 聖羅にとって、魔力が見えるようになってから初めて見る人の姿であったが、その確信があった。
 魔力を感じられない聖羅には、その魔力らしき光が本当に禍々しいのかどうかまではわからなかったが、見た目だけでも十分警戒するべき対象に見えたのである。
 思わず固まってしまった聖羅を、その老紳士も認識し、ヨウの方を向いていた身体を聖羅へと向ける。

「これはこれは……キヨズミセイラ様ではありませんか。貴女様が単独でいらっしゃるとは……少々意外でしたな」

 本気で意外に思っているらしい声音だった。
 聖羅は警戒は解かないまま、茂みをかき分けて老紳士の正面に立つ。

「……わたしのことを、ご存じなんですか?」

「無論、存じ上げておりますとも。我が主が懸想しておられる方ですからな」

 その声音は柔らかく、友好的なように感じる。
 だが聖羅は元の世界で培われた警戒心から、その言動に引っかかるものを感じた。

「あなたはヨウさんの眷属ではなく――リューさんの眷族の方、で間違いありませんか?」

「我が主を、そのような間抜けな名で呼ぶのは止めていただきたいですな」

 強い拒絶の念が、その言葉には籠もっていた。
 いままでその呼び名について、そういった反応を受けたことはなかったため、聖羅は息を呑む。

「……失礼しました。あなたは、死告龍さんの眷属の方ですか?」

「ええ、そうですよ。我が主の最初の眷族として、この魔界に誕生しました」

 誇らしい様子だった。
 だが、聖羅を見る視線には、友好的な気配は微塵もない。
 聖羅は身を竦めながら、問いかけを続ける。

「死告龍さんが弱体化していることを、ご存じですか?」

「ええ、もちろん存じておりますとも。……貴女様のせいでね」

 魔力を感じられないはずの聖羅が、肌に突き刺さるような刺激を、悪寒を感じた。
 聖羅の『目』には、老紳士の身体を覆う光が、一際大きく膨れあがるのが見えていた。
 それは一定の大きさまで広がると、ゆっくりと元の大きさに戻っていったが、それはまるで怒りを堪えて震えているようにも見えた。
 思わず数歩後ずさった聖羅に対し、老紳士が纏う怪しげな光は益々大きく波打つ。

「ああ、本当に貴女様はただの人なのですな。いや、ただの異世界人というべきですか。存在自体は確かに希少も希少。……ですが、本当に解せない。我が主はなぜこのような女をツガイに、と」

 怒りを滲ませてぶつぶつと呟く老紳士の姿を見れば、聖羅も何を問題視しているのか察することが出来た。
 恐る恐る、問いかける。

「あなたは、死告龍さんがわたしを気にかけているのが、気に入らないのですか?」

 その問いかけが届いた瞬間、老紳士の輪郭がゆらりと揺らいだ。

「……逆にお聞きしますが、貴女如きが、我が主に気に入られてしかるべきだとお思いで?」

 声には憤怒が籠もっていた。

「我が主は至高の存在。この世界において並び立つ者のいない、究極の存在なのです。人間の王は無論、いかなる魔王も我が主に並び立つには力不足……だったというのに!」

 爆発的に老紳士の質量が増大し、その本性を露わにする。
 八つの首を持つ大きなドラゴン。太い四つ足は像よりも逞しく、その尾は鋭いトゲも相成って凄まじく攻撃的だった。八つの首を支える胴体には巨大な翼も生えており、ただでさえ巨体の身体を更に大きく見せている。
 本来の死告龍の大きさをも遙かに超えた巨躯は、八つ首であることもあってか、威圧感は八つ首の竜の方がよほど大きい。
 八対の目から睨み付けられた聖羅は、身体を縮ませ、息を呑むことしか出来ない。
 そんな聖羅の、人間としては真っ当な反応。
 それに対し、八つ首の竜の全身から、より強い憤慨が燻る。

『こんな程度の! 我が真の姿に怯えて動けぬ程度の! 愚かでか弱い人間に懸想しているなど! そんなことが許されるとお思いで!?』

 聖羅は死告龍という存在と交流を深める内に、ドラゴンの姿には慣れていた。
 しかし、いま聖羅が目の前にしている八つ首の竜は、死告龍を相手にするのとはまるで違う。
 彼は敵意を持って睨み付けてきているのだから当然だ。
 飼い犬と毎日触れ合い、犬という存在に慣れている人間でも、他人が飼う大型犬が牙をむき出しにし、吠えてきたら恐怖を感じずにはいられないだろう。
 まして、いま聖羅が相対しているのは、人間を一呑みに出来そうなほど巨大な竜なのだから。
 牙から滲んだ毒液が、地面に落ちる。その部分の地面が溶け、湯気があがった。
 その恐ろしい形相も相成って、聖羅は何も応えられなかった。
 聖羅の一般人としては極普通な反応を受け、八つ首の竜は不満げに呟く。

『我が主は究極にて至高……でなければ、私が仕える価値がない。貴女のような凡人に現を抜かすようなことは許されないのですぞ』

 ゆえに、と竜は続ける。

『我が主が、儂の主として不適格であるならば――望ましい主に儂がなればいい。そのために、主を惑わし、力を切り離させ、さらに力を蓄え、魔界に対する支配力を増したのです』

「そんな……無茶苦茶な」

 思わず聖羅はそう呟いていた。
 この眷属は、主が気にくわないから、その主に成り代わろうとしている。
 理屈としては、まず主を諫めるのが順番として先ではないのか。
 自分に相応しい主を得ようと、自分が主になるというのは、破綻した理論ではないか。
 そう思いはしたものの、目の前に敵意溢れる竜の頭部がある状態では、相手を刺激するようなことは口に出来ない。

『我が主と儂の力関係はすでに逆転しております。いまだ主と眷属の関係に縛られる部分はありますが……それも時間の問題でしょう。主が切り離した力の大半を儂が取り込んだ時、儂は全ての柵から解き放たれ、究極の存在へとなれる』

 八つある首の内ひとつが、聖羅を喰らわんと動いた。

『貴女に何が出来るとも思えませんが……勝手に動かれても面倒です。ここで捕らえておきましょうか』

 当然ながら、魔法の使えない聖羅がそれに対応することなど出来るわけもなく。
 迫る顎を呆然と見詰めることしか出来なかった。
 だが。

『――させないわ!』

 その場には、彼女を守護することを誓った大妖精・ヨウがいた。
 何重にも展開した蔦の結界の中から飛びだしたヨウは、破砕した結界の光を目くらましに、一瞬で聖羅の元に移動した。
 だがそれは、八つ首の竜の想定内であった。

『ようやく、出て来てくれましたか』

 聖羅を抱えて逃げようとした大妖精の周囲を、八つ首の竜が生み出した結界術が囲む。
 結界は大妖精の移動を制限し、聖羅ごとその場に縛り付ける。
 大妖精もまた魔法を唱えてその結界に抵抗しつつ、上空に向けて光弾を撃ち出した。

『すべての眷属に告げる! 私の元に来て、セイラの守護を最優先! 彼女を護って!』

 上空に撃ち出された光弾は煌々と光り、彼女たちの場所を周囲に知らしめる。
 だが、八つ首の竜は動じなかった。

『いまさら無駄な足掻きを……』

 そうしている間にも、聖羅と大妖精を包む結界は十重二十重に練られ、彼女たちの自由を指先のひとつに至るまで奪っていく。
 全身を締め付けられる息苦しさを感じつつも、大妖精は不敵に笑った。

『残念だけど、こうなった以上は、賭けるしかないのよね……』

 その言葉と同時に、森の一角が吹き飛んだ。
 瞳を真っ赤に輝かせた、死告龍が現れた。
 八つ首の竜は即座にそちらに向き直った。

『おお、我が主! ずいぶんと、お労しいお姿で!』

 言葉だけなら、主の身を案じる忠臣の姿だ。
 だが、聖羅はそこに嘲りのニュアンスを感じた。
 それは死告龍・リューにも伝わったのだろう。
 益々その瞳を激怒に輝かせる。

『おまえ……! セイラに、なにしてる!』

 一喝すると同時に、いまの死告龍の体格からすれば、凄まじいサイズのブレスを一呼吸で放った。
 黒い光が宿っていないそれは、即死属性をあえて込めなかったのだとわかる。
 森に即死のブレスが当たらないようにという配慮が見えた。
 そんなブレスを、八つ首の竜は空中に飛び上がることで避ける。

『我が主よ……それは愚行でありましょう!』

 上空に逃れた八つ首の竜が、それぞれの首の口からブレスを死告龍に向かって放つ。それもまた即死属性が込められていない素のブレスであった。
 リューはそれを打ち消そうと連続でブレスを吐いたが、体格の差と数の差は如何ともし難く、為す術もなく押し切られる。
 複数のブレスに押し潰されるようにリューが地面に激突し、大爆発が起きた。

「リューさんッ!」

 聖羅の悲鳴が森の中に木霊する。
 砂煙が晴れた時、森の中に出来た巨大なクレーターの中心に、リューが横たわっていた。
 そこにようやく、ヨウの眷属達と、四人の人間達がやって来た。

 しかし、彼女たちが加わっても――八つ首の竜を止めるには至らなかった。




 捕らえた人々から膨大な魔力を吸いあげ、さらに強大な魔法を放とうとする八つ首の竜。
 ヨウと共に捕らわれている聖羅は、何も出来ずにそれを見詰めるしかなかった。

(このままでは、皆さんが……!)

 八つ首の竜という、あまりに強大な魔族を前に、テーナルクたちは満足に動くことも出来ないようだ。
 聖羅は彼女たちがリューと相対したときのことを思い返す。
 あのとき、リューは友好的な態度とは言いがたかったが、それでも彼女たちに対して敵意や殺意を抱いていたわけではなかった。
 それでも、強大な存在を前にして、ルレンティアに至っては体調を崩すほどの重圧を受けてしまっていたのだ。

 その時のリューに匹敵する存在の八つ首の竜が、殺意を向けている。

 彼女たちの身体は蛇に睨まれた蛙の如く、硬直してしまっていた。
 頼みの綱だった大妖精のヨウは聖羅と共に囚われの身にあり、とても彼女たちを助ける余裕はない。
 彼女の眷属たちは魔法の発動を止めようとして突撃を仕掛けているが、八つ首のいくつかが軽くあしらっていた。
 大鹿はすでに死に体であり、死告龍本体は地面に横たわったまま動かない。

(誰か……!)

 死告龍相手でも臆することのない存在は限られている。
 聖羅は、その数少ない存在である、この国の王族達を思い浮かべたが、ルィテ王国の国王たるイージェルドは、魔界の外に脱出しているとアハサから聴かされていた。
 その弟で、軍事関係の責任者であるオルフィルドは魔界にいるはずだったが、彼がいまどうしているかはわからない。すでに囚われている可能性もある。
 死告龍レベルの魔物に対抗出来る者はそうそういるものではない。
 仮に騎士や兵士が無事に残っていたとしても、助けにはならないだろう。
 そこでふと――聖羅は思考の隅に引っかかるものを感じた。

(あれ? そういえば『あの人』は、リューさんに、全く怯んでなかったような……?)

 当時、聖羅はリューやヨウと意思疎通が出来なかったため、そのことを気にする余裕もなかったが、死告龍や大妖精といった存在を相手にしても、全く怯んでいなかった存在がいたことを思い出した。
 いまから考えれば、それはとても不自然なことだった。
 各国の要職に就いていて、対策をしていたはずの四人の女性達ですら、死告龍や大妖精相手に怯んでしまったというのに。

 何も持っていないはずの『彼』は――彼らに怯んでいなかった。

 そのことを聖羅が思い出した時、地面に倒れたままだったリューが起き上がる。
 大きく口を開き、黒い光がその口内から溢れた。
 今度は、即死属性を有するブレスだ。上空を飛ぶ八つ首の竜に向かって放てば、森にブレスは当たらない。
 それにいち早く反応した八つ首の竜は、三つの首の口内にブレスを溜める。

『無駄なことを……! 儂もまた即死属性を持つということをお忘れか!』

 残りの五つの首の内、四つが魔法を放つ動作を続けている。
 例えリューが即死のブレスで押し切ったとしても、同時に放たれる魔法がリューたちを穿つだろう。
 攻撃と防御、両方同時に行うことは、いまのリューには出来ない。

 リューのブレスと、八つ首の竜のブレスが激突する。

 八つ首の竜は、リューのブレスを相殺することを狙っていたらしく、同等の力を持つブレス同士は触れあった瞬間、大きな爆発を起こした。
 本命はその爆発の中で放たれた強力な魔法攻撃だ。
 攻撃の直後で動けないリューや、動く余裕もないテーナルクたちを八つ首の竜の魔法が襲う――寸前で打ち消された。

『なにっ!?』

 八つ首の竜が驚く。
 ルィテ王国の王族のひとり――完全武装したオルフィルド・ルィテが、テーナルクたちを庇う位置に立っていた。
 その身を覆う鎧には幾何学模様が浮かび上がっており、魔法を打ち消したのはその力であると、魔法の知識の無い聖羅でも察することが出来た。
 それだけではなく、オルフィルドはリューに向かって手を翳しており、それが生み出したと思われる結界が、リューへの攻撃も防いでいた。

「叔父様!」

 思わず、といった様子で歓喜の声をあげたテーナルクに、オルフィルドは微笑みを返した後、その鋭い目で八つ首の竜を睨み付ける。
 八つ首の竜は新たに現れ、自分の攻撃を防いだ存在に警戒心を持ったが、人間ならばいまの彼にとって恐れるほどの存在ではない。
 だから、ほんの少しだけ、気が緩んだ。
 その気の緩みは、戦場において致命的な隙だった。
 空を飛ぶ八つ首の竜より、さらに上空からの奇襲を見逃してしまうくらいには。

 空から降ってきたその者――ヴォールドの渾身の一撃が、八つ首の竜に炸裂した。

つづく

バスタオル一枚で異世界転移 第二部 第八章 3


 その日の真夜中。
 ルィテ王国に住む者達は、国の滅亡を覚悟した。

 空を飛ぶ魔物に対応するため、国の上空に張り巡らされている大規模な結界。
 王国屈指の魔術師たちが協力して張り巡らせたそれは、仮に質量の大きな巨石が飛来したとしても完璧に凌ぎきるほどの防御力を有する。
 戦略級の魔法兵器でさえ、ヒビを入れるのがせいぜいだろうその結界が――わずか一撃で砕かれたのだから、そう覚悟するのも無理はなかった。
 そんな芸当が出来る存在を、彼らはよく知っている。

 この世の全ての存在に死を告げる龍――死告龍。

 ルィテ王国を護る大結界を一撃で粉砕した漆黒の龍は、大胆不敵にも王城の中庭へと直接降りてきた。
 その圧倒的な威圧感と存在感を前にしては、王宮に勤める騎士や兵士でさえ、まともに応対することが出来ない。
 その場でブレスを吐かれれば、それだけで何百といる城勤めの人間が死ぬだろうと考えれば、下手に動けないのも無理はなかった。
 幸いにして死告龍は問答無用でブレスを吐くことはしなかった。
 ただ、何かを探すように周囲に集まった人間達を睥睨するのみだ。
 そんな死告龍の元に、ルィテ王国の頂点――国王イージェルド・ルィテが進み出る。

「……如何様かな、死告龍殿」

 彼の身を包むのは国宝級の装備品の数々。
 その手に持つ杖は、魔法を補強する物品としては、世界に数えるほどしか存在しない至高の杖だった。
 しかしそれほどの品々で身を固めていても、イージェルドは死告龍に勝てないことを理解していた。
 ゆえに対話を試みる。
 相手の意図を見定めると同時に、少しでも時間を稼ぎ、一人でも多くの国民を逃がす必要があった。こうしてイージェルドが会話している間にも、彼の指示で城下町の民を逃がしているのだ。
 自らの命は捨てる覚悟で、死告龍との対話に臨んだイージェルドだったが、死告龍は思いがけないことを口にした。

『りょうりにん?っていうのが欲しい』

 幼い声音で放たれた端的な命令。
 死告龍がドラゴンの中では幼い部類であることを、イージェルドはこのとき改めて実感した。
 死告龍の存在が噂されるようになって、まだそれほど長い年月は経っておらず、死告龍が年齢的には幼いドラゴンであることは簡単に推測がつく。
 それなのに通り名が世界に知れ渡っているのが異常なのだ。それだけ、死告龍の戦闘力がずば抜けて高いことを示している。
 イージェルドはそのことを噛みしめつつ、死告龍の目的を新著云為尋ねた。

「料理人が欲しいのかい? ……理由は聞いても構わないだろうか?」

『必要だから』

 死告龍は端的に返す。
 イージェルドはその時点で詳しく理由を尋ねるのを断念した。
 他国の王族たちとの舌戦に関してならば、イージェルドも負ける気はしなかったが、今回の相手はそういった交渉術が意味を成さないからだ。
 下手に情報を引き出そうとして、死告龍の気分を損ねれば国が滅ぶ。
 ルィテにのみ存在する者を探しに来たのならともかく、料理人であればルィテ王国でなくともいい。
 そう思い至れば、死告龍は攻撃を躊躇することをしないだろう。

「わかった。我が国の誇る料理人を選出しよう。少しだけ時間をもらっていいかな? すぐに連れてくる」

 死告龍はぴくりと顔を引き攣らせたが、渋々と言った様子で頷いた。

『なるべく早く。急ぐ』

 そういってイージェルドから視線を外した死告龍は、中庭の周囲に集まって、イージェルドと死告龍が会話するのを見詰めていた兵士や騎士を見渡す。
 彼らも職務上、決死の覚悟でいたのだが、死告龍が尻尾で地面を打つと、蜘蛛の子を散らすように顔を引っ込めた。

「グルル……」

 不機嫌さを隠そうともしない死告龍は、軽く唸る。
 一瞬、口内に黒い光が滲んだが、思い直したのかその光はすぐに収まっていった。
 いまにもブレスを吐きそうな危うさを感じたイージェルドは、頬を冷や汗が流れるのを感じた。
 死告龍を刺激しないよう、兵士や騎士に見えない場所まで後退するように命じつつ、その場を離れたイージェルドは、頭をフル回転させる。

(どうする? 料理ではなく料理人を求める以上、どこかに連れて行くつもりだと考えるべきだ……だが、死告龍と相対してまともに動ける料理人など……)

 戦いが専門の兵士や騎士でさえ、死告龍の強大な存在感を前に怯えているのだ。
 普通の料理人がそんな死告龍に連れていかれて無事に済むわけがない。
 最悪、死告龍に相対した段階でショック死する可能性もある。
 普通の料理人は死告龍級の魔物と相対することを想定していない。
 そう――『普通』ならば。

「兄……いや、陛下。こちらにいたか」

 一人の候補に思い至っていたイージェルドは、まさにその候補が目の前に現れたことになんとも複雑な表情を浮かべた。
 職人らしい気難しげな相貌に、屹然とした表情を浮かべてその彼はイージェルドに声をかけていた。
 城の厨房に勤める、料理人の一人。
 城に勤める料理人は多く、イージェルドも全ての料理人の名前を把握しているわけではない。しかし、その彼については把握していた。

「ヴォールド」

 彼の名前を呼んだ時のイージェルドの声は、複雑怪奇な声音だった。
 安堵と苦悩と、その他色々な感情が篭もっていて、一言で表すことはとても出来ない。
 一方のヴォールドは普段と全く変わらぬ様子で、進言する。

「俺に行かせてく――ださい」

「……わかっているのかい。相手は死告龍なんだよ」

「だからこそ、だ。俺以上に適任はいないだろ――でしょう」

「いまは言葉使いは気にしなくていいから。不問にする」

 そうイージェルドが告げると、ヴォールドはニヤリと笑った。
 彼との付き合いが長いイージェルドはそれが微笑みの類いであるとわかったが、わからぬ者が見れば不敵すぎる笑みだ。
 ヴォールドは片手で頭を搔く。

「そう言ってくれると正直助かるぞ。兄貴に対して畏まった口調は、どうにも違和感が強くてなぁ」

「こら。そこまで砕けるんじゃない。いまのお前は弟ではあっても、王族ではないんだからな」

 そう窘めつつ、ヴォールドがそういう人間だとよく知っているイージェルドは、諦めていた。
 城の厨房に勤める料理人・ヴォールド。
 彼はその我が道を行く破天荒な性格に育ち、王族に最も必要とされる交渉力を欠如しており、料理という道を究めたいという目標を持ってしまったことから――その王位継承権を放棄し、王族という身分を捨てた存在だった。
 王族であったときの名をヴィグォルドという。
 現国王イージェルドの弟であり、軍事部門の責任者であるオルフィルドの兄だ。
 彼はヴォールドと名前を変え、一介の料理人としてルィテ王国のために働いている。
 ちなみに、後にイージェルドの娘であるテーナルクが料理をしていると告げた際、イージェルドが苦い顔をしたのは、料理に傾倒する余り王位を捨てたヴォールドの存在があったためである。

「で、兄貴。どうする? 早くしないとまずいだろう?」

 ヴォールドはイージェルドの複雑な心境を知ってか知らずか、そう問いかけてきた。
 イージェルドは腕を組んで考え込みながらも、答えはほぼ出ているようなものだった。

「……確かに、死告龍と相対して死なずにいられそうな料理人は、お前くらいなんだよなぁ」

 ヴォールドは王位継承権を捨てたが、捨てるまでは王族としての教育や鍛錬を積んでいた。残念ながら政治的な能力は開花しなかったが、代わりに彼は純粋に強かった。
 魔法に関してはイージェルドの方が高度なものを会得していたが、代わりにヴォールドは体術においてはイージェルドには出来ない水準のものを体得している。
 現国王たるイージェルドは貴重な装備品を身に付けているため、実際の戦闘ではイージェルドに分があるが、素のままの戦闘力でいえば、勝るとも劣らないものをヴォールドは有しているのだ。

(そういう意味では、いまこの瞬間こそ、ヴォールドを最大に活かせるかもしれないな)

 ヴォールドは強い。
 しかし、継承権を放棄したとはいえ、元王族である彼は気安く表に出すことの出来る存在ではなく、国としては『万が一の時のための切り札』という役割しか与えられなかった。
 だが死告龍という国の危機であるならば、その切り札を切る理由になり得る。

「……うん。やはりここはお前に行ってもらうしかなさそうだ」

 イージェルドは総合的に考えてそう判断を下した。
 ヴォールドは野性味溢れる顔で、にやりと笑う。

「ああ、任せておいてくれ。なあに、料理人を求めるってことは殺す気はないんだろう。もしかすると、俺が死告龍の胃袋を掴んで懐かせてしまうかもしれないぜ」

「ははっ。そうなったらいいけどねぇ……まあ、無理はしないでいい。不興を買わないように気をつけてくれ」

「もちろんだ。俺も死にたくはないからな」

 イージェルドとヴォールドは頷き合い、死告龍の待つ中庭へと向かった。
 待たせていたのは短い時間だったが、死告龍にとっては長い時間だったようだ。
 イライラと尻尾を地面に叩きつけていたが、イージェルドの姿を認めるとぴたりと動きを止める。

『やっと来た。おそい』

 ぴりぴりとした苛立ちの波動を受け、イージェルドは内心肝が冷える。
 王族の矜持として表に出すことはしなかったが、普通の人間なら全身から冷や汗が流れて止まらなかっただろう。
 一方、そんなイージェルドの隣に立つヴォールドは、いつもと変わらぬ様子だった。

「お初にお目にかかります、死告龍。私が料理人のヴォールドと――」

 外行きの口調と振る舞いで挨拶をしようとしたヴォールドだったが、死告龍が口を開いて首を伸ばし――端的に言って噛みついて来たため、思わず全力で避けた。
 目の前でガチンと牙と牙が当たる音を聞き、さすがのヴォールドも青ざめる。
 外したことを知った死告龍は、苛立ちを募らせる。

『なんで、避けるの?』

「いやいやいや! 誰だって避けるわ!」

 思わず素のままの言葉遣いで死告龍に抗議したヴォールドに、傍で見ていたイージェルドは青ざめた。
 だが、幸いそれが死告龍の怒りに触れる前に、『あ』と口を開け、死告龍は何か思い出したようだ。

『そうだ。人間はくわえて運んじゃダメなんだった』

 ただ運ぼうとしていたことを知り、一瞬安堵が広がる。
 その安堵を握りつぶすように、死告龍は前脚で器用にヴォールドを掴みにかかった。
 今度は避けられなかったヴォールドは、再度声をあげる。
 とっさに身体強化の魔法などをフル活用して耐えられるヴォールドでなければ、掴まれた時点で重傷だっただろう。

「いででで! だ、からっ、殺す気か!? 力加減を考えてくれ!」

『むー、うるさい。……これでいいの?』

 言うことを聞いたというには渋々だったが、一応力は緩めたようで、ヴォールドは安堵の息を吐く。
 その頬には一筋の冷や汗が流れていた。

「俺じゃなかったら、内蔵飛びだして死んでたぞ……おぉっ!?」

 ヴォールドの台詞が終わるのも待たず、死告龍は翼を広げて空へと舞い上がる。
 イージェルドはそれを呆然と見送るしかなかった。
 文字通り嵐のように去って行ったのを確認すると、深く息を吐く。

(まあ、あいつならなんとかしてくれるか……頼むぞ)

 気持ちを切り替えたイージェルドは即座に周りの者に命じ、退去命令の撤回と結界魔法の張り直しなどの指示を出していく。
 後始末にかかる苦労は甚大だった。
 そんな負担をルィテ王国にかけた気などさらさらない死告龍は、ヴォールドを掴んだまま高空を高速で移動する。
 魔法を使って環境に適応したヴォールドは、死告龍に尋ねてみることにした。

「なあ、どこに向かってるんだ?」

『お婆ちゃんのところ』

「……まさか始祖龍のことか?」

『なにそれ?』

「……あー、山のように巨大なドラゴンのことなんだが」

『そう呼ばれてるの? お婆ちゃんは確かに山みたいにおっきいけど』

 ヴォールドは人間の間で最大最強のドラゴンと呼ばれているドラゴンの元に連れていかれようとしていると知り、思わず遠い目になった。
 死告龍にも怯まないヴォールドではあるが、恐怖心がないわけではない。

(冗談じゃないな……俺でも震えが来るってのに……料理長のじいさんを行かせなくて本当に良かった)

「そこで何をさせたいんだ?」

『餌を……いや、りょうりっていうんだっけ? それを作って』

「食べたいのか?」

『違う。食べさせたいの』

「……始祖龍に?」

 話の流れ上、仕方なかったがヴォールドはそう尋ねた。
 だが、死告龍は話がうまく伝わらないことに苛立ってしまう。

『ちーがーうー! 行けばわかる!』

 ヴォールドはこれ以上聞き出そうとすると無闇な刺激になってしまうと判断し、質問を止めることにした。

(行けばわかるっていうなら、いますぐ聞き出すこともないか)

 ほどなくして、死告龍に連れられたヴォールドはとある山の一角にたどり着いた。
 そこは相当数のドラゴンの気配がそこかしこから漂ってくる、魔境も魔境だった。
 ヴォールドは人間であるがゆえに気配だけではそこまで影響は出なかったが、気配に敏感な魔物などにしてみれば恐怖の対象でしかないだろう。
 まだマシなヴォールドでさえ、全身を走る悪寒に気が遠くなったほどだ。
 その山の一角。死告龍が入れる大きさの洞窟の前に降り立った死告龍は、ヴォールドを無造作にその場に放り捨てる。
 周りの気配に気を取られていたヴォールドは、受け身も上手く取れずに地面に投げ出された。

「どわっ! おまえな……! 乱暴に扱うのもいい加減に……」

 一言文句を言ってやろうと口を開き賭けたヴォールドだったが、その前に視線を観じて残りの言葉を飲み込んだ。
 視線を感じた方向――洞窟の入り口付近に、目を引く二人の女性の姿があったから。
 こうして彼は出会ったのだ。
 背中から薄い羽根の生えた妖精と思わしき者と、もうひとり。

 白い布を腰に巻き付けた、ただの人間にしか見えない――清澄聖羅に。




 上空から八つ首の竜に斬りかかったヴォールドがその手に握っていたのは、彼が愛用する包丁だった。
 その包丁自体は立派なものだったが、巨大なドラゴンの首を切るにはとても長さが足りない。
 とはいえ、それはあくまで物理的な話で、魔力を乗せた一撃の攻撃範囲は刃渡りの長さだけに留まらない。
 斬撃の勢いに合わせ、八つ首の竜の首に深い傷が刻まれる。

『ぬグゥッ!?』

 突然走った激痛に八つ首の竜が唸り、攻撃してきた者を迎撃しようとしたが、その前にヴォールドは次の攻撃に移っている。
 長い首を伝って移動し、回転しながら、八つの首を高速かつ連続で切りつけていく。
 瞬く間に無数の傷を作った八つ首の竜の全身から、血が噴き出した。
 首の切断までは至らない傷ばかりだったが、浅くもない。
 ヴォールドの猛攻に、その巨体がぐらりと揺らいだ。気付けば、八つ首の竜の翼にも裂傷が走っている。

『糞がッ!』

 八つ首の竜の全身から黒い霧が滲み出した。
 即死の力を全身に纏っているのだ。全身に分散している分、低い確率ではあるが、触れた者は即死させられる可能性が生じてしまう。
 ゆえに、ヴォールドは即座に八つ首の竜の身体から離れた。優位な位置取りを躊躇無く捨てることが出来るのは、戦い慣れている証拠だ。
 高空から体勢を崩すこともなく、地面に降り立ったかと思うと、素早くオルフィルドの側に移動する。

「やっぱ硬いな。一本に集中した方がよかったか?」

 包丁を振るってこびり付いた血を払いつつ、ヴォールドがぼやく。

「どっちにしろ切断までには至らなかっただろう。十分だ」

 軽い調子で言葉を交わしつつ、オルフィルドは中空に魔方陣を描き出していた。
 そこから放たれた光が、空中に捕らえられていた聖羅とヨウへと放たれる。
 その光は、彼女たちを捕らえている結界に干渉すると、その結界にヒビが入った。

『解除魔法か……! おのれ、人間如きがッ!』

 怒り狂う八つ首の竜が、再び魔法とブレスを放とうとする。
 だがそんな彼を牽制するように、ヨウの眷族達が一斉に攻撃に動いた。
 八つ首の竜はそちらの対処に追われ、オルフィルドの魔法を止められない。
 程なくして聖羅とヨウを包み込んでいた結界が完全に砕ける。
 聖羅を抱き抱えながら空を飛ぶヨウは、全身から憤りを滲ませていた。

『散々好き勝手にやってくれたわね――お返し、するわ』

 聖羅を片手で抱えながら、ヨウが空いた片手を振るうと、周囲の森の木々が一斉に動き、その枝の先からレーザーのような魔法攻撃が八つ首の竜へと殺到する。
 それらを魔法で防御する八つ首の竜だったが、劣勢なのは明らかだった。

『ぐぅぅ……! おのれおのれおのれ!』

 八つ首の竜が吼えたかと思うと、その巨体が陽炎のように揺らぐ。
 誰もが逃げる気かと思い、追撃の構えを取った。
 だが、八つ首の竜は人型に転じると、まっすぐ聖羅とヨウに向かって飛ぶ。

『ッ! しまった!』

 咄嗟にヨウは魔法障壁を張って突撃を防ごうとしたが、八つ首の竜が即死属性を纏わせた拳を振るってその障壁を打ち消し、さらにヨウの胸部に蹴りを入れて地面に向けて吹き飛ばす。
 その衝撃に、ヨウは抱えていた聖羅から手を離してしまっていた。

「ヨウさん……!」

 フリーになった聖羅が自由落下する寸前、人型の八つ首の竜がその身体をつかみ取る。
 追撃しようとしていた他の者達は、聖羅がいるために一瞬攻撃を躊躇してしまった。
 その隙を逃す八つ首の竜ではなく、聖羅を抱えたまま再び高空へと飛び上がる。
 遙か上空に達したところで、聖羅ごと忽然とその姿を消してしまった。

「セイラさんが、攫われた……!」

「てーなるん! 周囲を警戒するにゃ!」

 呆然としかけたテーナルクを、ルレンティアが叱咤する。
 それと同時に、周囲から迫ってきていた死告龍の眷族達が現れた。
 気付いていたのはルレンティアだけではなく、イージェルドたちもだった。すでに戦闘態勢を整えている。

「やれやれ、一難去ってまた一難、か」

「イージェルド、援護頼むぜ。こいつらさっさと倒して、あいつのあとを追わねえと」

 八つ首の竜の支配下にあると思われる眷族たちは、一斉に彼らに向かって襲いかかって来た。
 激しい戦いが繰り広げられる中、事態はさらに深刻な方向へと向かっていた。

つづく
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